第5章 浮島(1) 天人(あまびと)

漂着


 どのくらい時間がたったのだろう。

 ヒワは自分が翼にくるまって横たわっていることに気付いた。

―ここはどこなの。

 横たわったままで、体に痛むところがないか、頭部、両手両足、胴体に意識を巡らせた。

 大丈夫そうだ。つぎに目を開き見えること、耳をそばだて聞こえること、匂いが嗅げることを確認した。

 ヒワはくるぶしほどの草の上に横たわっており、周辺には低木が疎らに生えていた。草の匂いがして、そよ風の音がした。

―他のみんなはどこ?

 カヴァの姿が頭に浮かんだ。

 その時、遠くから近づいてくる足音が聞こえた。

―まずい。

 本能的に緊張が走る。

 両腕が動くことを確認してから慌てて体を起こして足音の方向を見ようとした。足音はまだ樹々の向こうで姿は見えない。

 一人だけのようだ。

 姿勢を低くして、できるだけ素早く近くの樹の後ろに隠れた。

 やがて樹々の間を縫うようにして、何かを探すように視線を散らしながら男性の姿が見えた。邦人くにびととはまた違った黄土色に幾何学的な紋様が入ったチュニックのような衣装を着た壮年の男だ。

 男の傍らにはコマの姿があった。

 コマは周りをくんくん嗅ぎまわっていたが、ヒワが潜んでいる方向へ向かって、ワンと一言吠えた。

 男はこちらへ向かって言った。

「誰かいるのか?」

 コマはヒワの足元まで来て、もう一度吠えた。

 ヒワは観念し、一歩進み出た。

鳥人とりびとか!」

 男は驚いた様子で低く押し殺した声で呟いた。

数十米メートル離れていたが、ヒワは警戒しながら男の方を見た。

「大丈夫だ。私は味方だ。」

 男は言った。彼を信用できるのだろうか?

 ヒワは激しく逡巡した。

「ここはどこですか?」

 恐る恐るヒワが尋ねる。

「ここか?ここは浮島だ。」

 まじまじとヒワを見て続ける。

「しかし驚いたな。鳥人を見るのは何年ぶりだろう。」

「浮島?」

 今度はヒワが驚く番だった。

「浮島まで飛べるはずはない。とても離れているもの。」

 そう言うと男は初めて表情を和らげ微笑んだ。

「そうとも。無理はない。普通地上からここへは飛んでは来られない。」

 少し真顔になって訊いた。

「どこから来た?名は何という?」

 逡巡してヒワが口を開いた。

「あなたは誰なの?」

「そうだな。私から名乗るべきだったかな。

 私はアルクス。鳥人だった。」

 どこかで聞いた名前だ。

 すぐに思いだした。

「私は崖街のヒワ。」

 男の表情に再び驚愕の表情が浮かんだ。

「崖街。」

「あなたは・・・」

「そうだ。私は崖街のアルクス。」

「アトリのお父様。生きておられたんですね!」

 狛がクーンと鳴いた。

「これは、マシコ。」

 マシコがヒワの足元に来て見上げた。

 ヒワは片膝をついて、そっと手の甲を差し出した。

 マシコが鼻を近づけ匂いを嗅ぐと、ぺろりと甲を舐めた。

「いい子。」

 頭を撫でてやる。

「息子を想って付けた。」

 アトリとマシコは同じ科に属する似た鳥だ。

「そろそろ動いた方がいい。ヒワ、君一人か?」

「わからない。他のみんながどうなったか・・・」

「わかった。後で訊こう。歩けるか?」

 ヒワが立ち上がり、両手を抜いた翼を背中に撥ね上げて歩けるようにしたのを見ると、アルクスと名乗った男は、肩にかけた荷物を背負いなおして踵を返した。

 アルクスが向かう先には断崖が聳えていた。

―そう言えば。

 ヒワは改めて廻りを見渡す。

 ここは平らな土地だ。しかし来た方向、背後を振り向くと数百米先は見えない。奈落のように途切れていた。

―この風景は崖街に似ているかも知れない。

 崖街は崖を穿った街である。崖を昇っていくと狭いけれど平らな土地があり、さらに上がると開けた場所がある。

―しかし、浮島の高度だと息ができなくなるはず。あの時、私は気流の管に吞み込まれたんだ。

 ここは別の空気に包まれているのかも知れない。

 先に歩んでいるアルクスは、崖に穿った岩場を登り始めた。ヒワは翼を背負ったままアルクスに付いて行く。

 その急な岩場を登りきると、そこには遥かまで続く平原が広がっていた。

 遠くには山並みも見える。

 平原をひたすら進んでいく。その先に小さな小屋が見えた。近づくと、木と石で作られた粗末な小屋だ。

「ここに隠れていなさい。」

 アルクスは扉を開けて中を示した。小屋の中は、寝台は一つ、食卓が一つと、こじんまりした空間だった。アルクスは頭巾と外套を取り、壁に引っ掛けると、炭火にかけてあったやかんから湯をカップに注ぎ、ヒワに渡した。

「白湯しかないが、温まるだろう。」

「ありがとうございます。」

 ほどよい温度の白湯が体を温める。

 しばらくじっとする。

 次にヒワがカップに口をつけたその時、小屋の屋根に一羽の鳥が止まる気配がした。アルクスが緊張した押し殺した声で言った。

「ここでじっとしていろ。すぐに戻ってくる。」

 アルクスはそう言いおいて小屋を出た。

 屋根には一羽の鳥が止まっていた。

ホシガラスだ。

 その鳥を見てアルクスは無表情を装い、鳥に語り掛けた。

「お役でしょうか?」

 その言葉は人間の言葉ではなかったが、ヒワには理解できた。彼も鳥使いなのだ。

「先ほどの気流の乱れは何か、とレコンカグア様が気にしておられる。」

「なんと。」

「レコンカグア様は、人間の鳥人を一羽見つけ、保護した。それと関連があるやなしかや。」

「それは、どのような?」

 ホシガラスは続けた。

「若い鳥人だ。」

 アルクスは平静を装った。

 ヒワは心臓が激しく鼓動したのを感じた。

「それに関し、レゴンカグア様はそのほうを召し出した。直ちにお館へ参れ。」

 言いおくとすぐに鳥は飛び去ったようだ。

 アルクスが戻ってきた。外の様子を窺い、すばやく扉を閉めた。少しの間、何かを考えるように虚空を見つめていたが、ヒワの方を見て言った。

「聞こえていなかったと思うが、もう一羽流されて来たようだ。まずいことに天人あまびとに見つかってしまった。すぐに行かなくてはならない。」

天人あまびと

 未だ状況がつかめてないヒワは、混乱しながら言葉を発した。

「あのう、無事なんでしょうか?そもそもなぜ私たちはここにいるのでしょうか?」

 聞きたいことが山ほどある。

軽く息をすいながら、アルクスが応じる。

「答えは後だ。行ってみなくてはわからない。ここで身を潜めて待っておれるか?」

 ヒワが頷く。

 出かける準備を整えると、マシコを連れて小屋を出て行った。


天人あまびと

 

 急ぎ足で歩きながら、アルクスは考えを巡らせた。自分の翼はここへ漂着した際に激しく損傷しており、同時にひどく負傷していた。彼を発見した天人は、彼を治療することと引き換えに、翼を修復することを許さなかった。その理由は彼をこの地に留めておくため。天人は浮島と天人の様子を地上に知られたくはなかったのだ。

 アルクスの時のように「あれ」がまた起こったのか?それも今回二羽が巻き込まれた。一羽は少女で、身体も翼もほぼ無傷。もう一羽は見てみないと分からない。彼の時は、北へ向かうためにより早い経路を取ろうとして、浮島の近くに寄り過ぎた。強い北西風に煽られた後、突然乱気流タービュランスに巻き込まれ、浮島の岩場に叩きつけられた。地上に落下すると思われたが、崖の中腹にかろうじて引っかかり墜落するのを免れたのだ。

 二日ほど宙づりになっていたところ、偶然近くをあのホシガラスが通り、天人に助けられた。

 もちろん天人を実際に見るのは初めてだったし、存在していることも知らなかった。それは神話の中でしか出てこない名前だったからだ。天人は人ではない。ゆえに人にはない能力を持っている。人と同じような外見と身なりだが、彼らは宙づりになっているアルクスの周りに漂うように降りて来た。そうして、彼に軽く手を触れるといとも簡単に持ち上げ、浮島の平な場所まで運んだのだ。

 その中の一人が、レコンカグアという女性の天人だ。見た目は二十歳代に見えるが、天人は不老不死といわれているので、正確な年齢はアルクスにはわからない。

 レコンカグアは彼女の館で彼を治療し、甲斐甲斐しく看病した。傷が癒え動けるようになると、レコンカグアは、ここから地上に戻ることはもはや許されないこと、その代わり彼女のために働けば、生活とここでの自由は保障するということを話した。謂わば下僕として生きよということだ。

 地上と同じ時間が進んでいるとすれば、それ以来14年になる、フイユという名前で。

 そのようなことを思い出しながら、歩いていくと樹々の向こうに大きな館が見えた。レコンカグアの住居だ。大理石と白木で作られた複雑な構造の建物で、数十もの部屋があるが、住んでいるのはレコンカグアと数人の召使だけだ。天人たちは大抵一人で暮らしており、家族で暮らすことはあまりない。ほかに使い鳥や使い獣がいて、外との連絡などの用事はそれらに言いつければ事足りる。

 数年前までアルクスはそこで暮らしていた。召使の女性と夫婦になり、数粁キロメートル離れたところに小屋や耕す土地を与えられ、外で生活することが許された。彼にとっては再婚だが、その女性は二年前に病で亡くなった。浮島は天人たちの土地だ。しかし人間も住んでいる。もともとは地上人だったようだが、今は浮島で生まれ育った者が天人の下僕として暮らしている。

 館の門の上に先ほどのホシガラスが止まっていた。アルクスが門の前に到着すると、一言カァと鳴いた。門扉が静かに開いた。

「レコンカグアさま、フイユでございます。」

 玄関の扉は見知った召使の女性が開けてくれた。マシコをそこに待たせ、彼女の後をついて主の部屋の前まで進む。

「ご主人様、フイユが参りました。」

「入れ。」

 アルクスは部屋に入り、立ち止まると頭を垂れた。背後で静かに扉が閉まる。

「フイユ、久しいのう。」

「はい、レコンカグアさまもご機嫌麗しゅう。」

「本題に入ろう。先ほどあの気流の乱れ、ミストラルが起こったようだ。その時に一羽の鳥人がここまで吹き上げられた。結界が開いたのだ。そなたの時と同じようにシーラスが見つけ、先ほど運び込んだ。」

 シーラスは先ほどのホシガラスの名だ。

「はい。」

「会ってやれ。まだ若い男の鳥人だ。」

「具合はいかに。」

「大事ない。ただ怯えておる。そなたが行けば安心するじゃろう。」

「ご厚情に感謝いたします。」

 指定された部屋に入ると、その少年は寝台の上で眠っていた。外傷はなさそうだ。彼が着ていたであろう翼は部屋の隅に置かれており、こちらも損傷は認められない。

 椅子を引き寄せ、寝台の傍らに座る。

 少年の寝顔を見つめていると、少年が目を覚ました。

「安心しなさい。ここは安全だ。」

 警戒の色を宿した目を見ながら、微笑みかける。

「私はアルクス。元々は地上の鳥人だ。」

 少年の目が驚愕の色に変わった。そして振り絞るように声を出した。

「父さん。」


 再びレコンカグアの部屋に戻ったアルクスは、一礼した。

「落ち着いたようにございます。」

とアルクス。

「ご苦労、フイユ。」

 そして訊いた。

「名乗ったか?あの少年は。」

「ノジコ、と。」

 自分をアルクスではなくフイユと名乗ったように、本当の名前は教えない。

「ふむ。天津衆あまつしゅうに知らせねばならぬ。この後の処遇をどうするかの詮議となろう。」

「レコンカグア様、幸い、あやつの翼も傷んではおらず、ここがどこかもまだわかっておりませぬ。このまま、地上へ還してやることはできませんか?」

 レコンカグアは、しばらく沈黙した。

 そして、

「それも含めて、天津衆に諮らねばならぬ。わらわが知ってしまった以上、決まり事だからな。」

 レコンカグアはアルクスを退出させ、純白の衣裳を身に着け、出かける準備を整えた。

「夜までには戻れるだろう。そなたはそれまでここで待っておれ。」

 扉の前で待機していたアルクスに、そういいおくと、レコンカグアは何かを含みのある眼差しでアルクスを一瞥した。つぎの瞬間、その姿は一瞬で書き消えた。


脱出

 

 直ちにアルクスは、アトリの部屋に滑り込み、静かに、かつ有無を言わせぬ口調で少年に告げた。

「翼を持って、私についてこい!」

 逃げるなら今しかないのだ。

 周囲を窺いながら静かに廊下に出て、アトリが続くのを確かめると勝手知ったる館の中を先へ進んでいく。そして主の言いつけを守らず、アルクスは急いで館を出た。門ではなく、召使たちが使う通用口から。だれにも見咎められることはなかった。

 アルクスは、レコンカグアがわざと隙を作ってくれたのかも知れない、と思いながら、自分の小屋を目指して林の中を急ぐ。

 浮島は広く、平地の端から端まで徒歩で行くと三日ほどかかる。しかし天人は翼を使用しなくともまさに飛ぶように歩くことができる。そのため、浮島の辺縁にあるレコンカグアの館から、ほぼ真ん中にある天津衆の社殿までは数時間で行くことができた。

 天津衆で話し合い、沙汰が出るまでそれほど時間はかからない。

 いつの間にか狛のマシコが合流していた。

 館から充分離れた頃を見計らって、アルカスが口を開いた。

「日が暮れるまでに、浮島から脱出するんだ。」

「父さんも一緒ですよね。」

「残念ながら私の翼はもはやない。ここに流された時に壊れた。」

 息を継いで早口でしゃべる。

「よく聞け。お前たちがここに来た時の乱気流、あれはミストラルと言って、めったに起こらないことなのだ。普段はあのような乱気流は浮島の周りでは起きないし、天人が結界を張っていて浮島に近づくことはできない。ミストラルがどのようにして起こるのかは天人もあずかり知らぬことのようで、この時ばかりは結界が破れる。」

 後を行くアトリの方を振り向いて続けた。

「ミストラルが始まると長い時で三日間続く。だが、一晩で終わってしまうこともあるという。だからすぐに出てしまえば、のぞみはある。」

「でも、どうやって。」

「来た方を逆に辿るしかない。つまり再び乱気流の中に飛び込むんだ。」

 アルカスの小屋が見えてきた。

 足音を聞いてどこからか外を窺っていたのであろう、ヒワが飛び出してきた。

「アトリ!無事だったのね。」

「二人は知り合いだったのか?」

 崖街の飛行学校で同級生であることをアトリが説明した。

 自分と同じ鳥人への道に息子が選んだことを、アルクスは感慨深く感じたに違いない。お互い話したいことが山ほどある。

 しかし、

「話をしている時間はない。日没までにミストラルに飛び込むんだ。」

 と心を鬼にして言った。

「さあ行こう。ヒワ、準備して。」

 ヒワが小屋に戻り、あわただしく荷物をまとめて出て来た。

「走れ。」

 陽はだいぶ傾いていた。

 三人と一匹は、先ほどヒワを連れて小屋に匿った際の路なき路を逆に辿って、浮島の縁へと歩いて行った。来た時と同じように、岩場を伝って平な場所に降りた。

 しばらく歩くと、ヒワの意識が戻った草地へと出た。ほんの一時間ほど前のことなのに、遠い昔のような気がする。

 そのまま三人は前に進む。

 「ふち」に出た。

 切り立った断崖の端に立っていた。

 西に沈まんとする太陽は鈍い光を放ち、とても眩しかった。

 青白いもやがかかってよく見えないが、下方にはシュマリナイ湖とそれを取り囲む山々があるはずだ。

 そして、強烈な風の束が下から吹き上げていた。

 ヒワとアトリはすばやく翼を着た。

「ここへ飛び込むの?」

 不安そうにアトリがアルクスを見る。

「ああそうだ。ここを吹き上げられてきたのなら、逆を行けば戻れる、はずだ。」

 アトリが何か言おうとしたその時、

「フイユ。」

と声がした。

 振り返ると、先ほど降りて来た岩場の上に、白の衣裳の裾をふわりと空にたなびかせながら美しい女性が立っていた。

「レコンカグア様」

 苦し気にアルクスが呟く。

「もう一人漂着しておったのか。」

 落ちついた声でレコンカグアが言った。 

 ここで二羽が飛び出していれば、その後、違う運命、展開になっていたかもしれない。

 

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