第8話 ピニャコラーダ

 夏服を取りに帰っておいてよかった。7月の初旬、ビックリするくらい暑い。学校までは1時間20分。自分のマンションからなら1時間だけど、実家からなのでプラス20分かかってしまう。同じ時間、同じ道、名前は知らないけど顔見知りと言ってもおかしくない見慣れた人たち。


「おはようございます」

「心愛ちゃん、おはよう」


 中学校のときの同級生のお母さんが道路のゴミを拾って、水を撒いてくれていた。

 名前を呼んでくれて挨拶をしてくださる。もうこれだけで良い日になったと思える。「ちゃん」と付けて呼んでもらえる歳ではないのだけど、やめどきを見失っているだけだろうから、そのままにしている。こういう距離感が実は心地よい。


「おはようございます」

「おはようございます」


 学校に着くと全てが逆転する。

 心なんてこれっぽっちも込められていない挨拶を、何度も何度も繰り返す。

 顔や名前はもちろん、家族構成、進路、悩みまで知っている間柄なのに、ギスギスした気持ちになってくる。よく知った生徒たちを見ていると、胸の中心に重い液体を飲み込んだような息苦しさを感じる。


「起立、きおつけ、礼」


 この子たちが私に何かをしてくるわけではない。だからこの子たちが悪いわけではない。


「今日は期末のテストの初日です。皆さん、頑張ってください」

「ひゃー、無理ー!」

「もう終わりだー」


 はい。いろんな感想を聞かせてくれてありがとう。

 私は中2のクラスを受け持ち、社会を教えている。この年頃の自分が何を考えていたのかは思い出せないどころか、見当も付かなくなっている。遣り甲斐を求めて教師になったはずだけど、その遣り甲斐が何だったのか覚えていない。そんなものそもそもあったのかすら怪しくなっている。こんな先生が担任でごめんなさいね。


 いつになく静かな教室をうろうろと歩く。今日は午前中だけ、3科目のテストだ。生徒を帰宅させてから、午後は一心不乱に丸つけを行う。2学期には三者面談で進路相談も始まってくる。押し付けられた部活の顧問と、母を施設に入れる手筈……そんなに全てが上手くいくだろうか。


 こっそり手帳を出し、To Do Listを作成してみようとするけど、真っ先にマンションのローンがネックになり、先に進めない。幸太郎に会わなくてはならない。夫は片道2時間近くかけて、別の中学校に出勤している。もう名ばかりで、夫婦の体をなしていないが、正直なところ彼はどう思っているのだろうか。


 何事もなくテストが終わり、帰りの会を取り行う。


「せんせー!3組の先生が妊娠したって本当ですかー?」

「女子バレー部はどうなるんですかー?」


 情報をリークするなら、一部ではなく、全部出してしまえばいいのに。学校の中途半端な対応が大嫌い。


「それについては、校長先生からお話があると思いますので、ここではお話しできません」


 ザワザワする生徒が、自然と黙るまでじっと待つ。


「先生は妊娠しないんですかー?」

「学年の途中で担任が代わると困るって、親が言ってましたー!」


 あなたたちが無邪気に発する言葉を、私がどれだけ不快に思っているか、どうしたら思い知らせることができるのだろう。


「先生は心配ありません」




 ***




「ちゃんと寝たのか?」


 昨日、バーで拉致られて、息子の部屋に泊まった。


「寝たよ」


 本当か?眠くて手元が狂ったとか無しだからな。


「父さん、出られる?」


 一緒にタトゥーショップに向かう。行きがけにコンビニでコーヒーとパンを買った。


「今日は夕方までいい?」

「ああ、いいよ」


 ショップの作業場を使わせてもらう許可が降りたのだろう。俺の定休日を狙って昨日から計画してたってわけか。なかなかやるな。


「準備するから、待ってて」

「ああ」


 受付の椅子に座って、パンを食う。息子、友弥は俺によく似ている。顔もだけど、骨格と言うかシルエットが同じだ。まるで若い頃の自分を見ているような気になってくる。


「食い終わったら、こっち来て」


 服を脱いで、専用の椅子に座る。友弥が背中を撫でている。


「どうだ?」

「大丈夫と思う」


 なんとも心細い返事だな。特にデザインの指定はしなかった。好きにやらせている。


「卒業はできるんだよな?」

「問題ない」


 背中が冷っとした。消毒をコットンで塗りつけている。始まる……





「ふぅ」


 小さい溜め息。終わりの合図だ。


「しばらくそのままで」

「ああ」


 別に何でも構わなかったが、どうして「昇り龍」なんだ?と思ったことはある。正直、タトゥーと入れ墨の違いもよく分かっていない俺ではあるが、さすがにヤクザのようではないか?と気にはなる。だが、それを聞く気にはなれない。


「はい」


 ペットボトルの水をもらう。


「サンキュ」


 友弥の処女作を俺の背中に引き受けたわけだから、何があっても文句を言う気はない。



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