第2話 モスコミュール
今日の職場での出来事を思い出す。
「榊原先生、ちょっとお話があるのでいいですか」
そう学年主任に言われ、一緒に校長室に伺った。そこには同じ学年を担当している、佐藤先生が既にいらした。
「佐藤先生が、この度、めでたく第三子を妊娠されまして、上のお子さんたちのお世話もあるので、夏休みから早めの産休に入られることになりました」
昨年、第二子の育休から戻って来たばかりだと思っていた20代後半の先生だ。
「おめでとうございます」
他になんと言えばよかったのだろうか。
「それで、佐藤先生が顧問をされていた、女子バレー部を榊原先生に引き継いでいただけないかと思いましてね」
「それは……すみません。私もプライベートで手一杯でして……」
「皆そうですよ。まさか、榊原先生、自分だけが大変だとでも思ってらっしゃるんですか?」
「まさか。そうは申していませんが……」
「榊原先生はお子さんもいらっしゃらないし、我が校のバレー部はお世辞にも強いとは言えませんから、練習だって、ただ、学校にいるだけでいいんですよ。ね?佐藤先生?」
「はい」
途中で投げ出すのなら、最初から引き受ければいいのにと、心の底から嫌悪感が湧き出てきた。
「それでも……私は、自分に部活の顧問が務まらないことが分かっていたので、年度初めの顧問決めの際にお断りをしていたはずです」
「そんなこと承知でお願いしているんですよ。他の先生方は別の部活の顧問をやってくださっているのにね、何も引き受けてくれなかったのは榊原先生だけなんですよ」
そう言われては、もうどうやっても断れる気がしない。夏休みに入る一カ月前、6月後半の今、急に言われても困ってしまう。私にだって都合がある。
「申し訳ありませんが、夏休み中の練習は見られません。既に予定が入っていますので。ですが、2学期からは授業後、残れるように調整してみます」
校長先生は私の頭から足のつま先までをゆっくりと往復して見た。あまりにも気持ちが悪くて、危うくよろけそうだった。
「佐藤先生、それでどうでしょうか?」
「はぁ……1学期が終わり次第休みに入るつもりでしたので……できれば夏休み中は練習を見ていただきたいのですが……」
「申し訳ありませんが、私も既に予定がありますので、夏休みは無理です。すみません」
佐藤先生を睨んだつもりはない。ただ、自分勝手なスケジュールに振り回されて苛立ったのは確かだ。
「じゃあ、夏休みの間は……引き続き私が顧問を続けます……」
納得のいかない顔でこちらを見た佐藤先生の顔を思い出す。
「はあぁ~」
思わず、大きな溜め息が出てしまった。慌てて、バーテンダーを見る。
「お疲れですね」
目尻を下げて柔らかい笑顔を向けてもらった。お仕事柄なのでしょうね、人の話を聞くのがお上手なようで、つい気が緩んでしまう。
「ええ、仕事でちょっと」
「良かったら聞かせてください。私はこの通り暇なので」
***
そう言った瞬間に扉が開き、よく来てくれる常連がやって来た。
「龍二君、今日は連れがいるんでテーブル席いいかな?」
「はい、もちろんです」
50代の男性が3名来店された。
「ちょっと、失礼します」
せっかく話を聞かせてもらえそうだったのに。残念に思いながら、カウンターから離れ、テーブル席のお相手をする。
「私はいつもの、バーボンね。あと、君たちはどうする?」
「私はビールを」
「私はモヒートをお願いします」
「かしこまりました」
カウンターに戻り、急ぎ、それらを用意する。仕事の悩みを抱えてるであろうこの女性のこの表情の理由を、ぜひ聞いてみたい。あんな深い溜め息を聞いて、放っておけるはずがない。
「お待たせしました」
テーブル席に飲み物を運ぶ。
「あと、何か食べ物をね、この辺のすぐ摘まめるやつを、ふたつ、みっつ頼むよ」
「承知いたしました」
参ったな。早く今日のシフトのスタッフが来ないかな、と思う。
ミックスナッツ、チーズの盛り合わせにクラッカーを添え、サラミとオリーブを並べて、テーブル席に運ぶ。
「ありがとう」
「ごゆっくりどうぞ」
ようやくカウンターに戻って来た。
「お会計をお願いします」
今、一番聞きたく無い言葉が耳に入ってくる。
「はい」
残念に思いながら、その女性の会計を済ませる。名前すら聞くことが出来なかった。
また来てくれるだろうか。今日聞けなかった話の続きを聞かせてくれるだろうか。期待をさせて、それを裏切ってしまっていないだろうか……表情からは何も伝わってこない。
「またのご来店をお待ちしております」
「はい」
本当に来てくれるかどうか分からない。
「ごちそうさまでした」
そう言って振り向いた後姿に息が止まる。綺麗な立ち姿、形の良い膝下の足、細い肩のライン、繊細な手つきで鞄を持ち、か弱いようで力強く店の扉を開けて出て行く姿に心を奪われた。
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