あなたがいい

あおあん

第1話 モスコミュール

 駅に向かう通勤路の途中にある小さな商店街。その石畳にぼんやりとオレンジ色に光る看板『Bar TITANIC』から地下に繋がる階段を慎重に下る。段差が大きくて、パンプスが脱げないか心配だ。降りきったところの大きな木製の扉の前に立つと、引き返せるか不安になってくる。


(ちょっとだけ覗いてみよう。もし、少しでも場違いだと感じたら引き返せばいいのだから……)


 ドキドキしながら扉を引っ張る。後ろ足を踏ん張り、すぐに手は離せるよう、ちょっとだけ開けて顔を近付ける。


「いらっしゃいませ」


 あっという間に見つかってしまい、引き返すタイミングを逃したと知った。

 ゆっくりと扉を開け、薄暗い店内に入る。


「お一人ですか?」

「はい」

「お好きな席にどうぞ」


 カウンターの向こう側から、バーテンダーが言った。低過ぎない、落ち着きのある素敵な声だった。横に長いL字のカウンターは14,5名ほど座れそうだったが、まだ誰もいない。


「よろしければ、ここに」


 手を差し出されたバーテンダーの正面に座る。


「当店は初めてですか?」

「はい」


 メニューを渡されるけど、お酒のことなんてさっぱり分からない。


「モスコミュールを」


 いくつも知らないお酒のレパートリーから、とりあえず一つ言ってみる。


「はい」


 綺麗な手をしたバーテンダーが取り出したグラスが、思っていたより大きくて驚く。ライムをグラスに絞ってそのまま落とした。フレッシュな緑のいい匂いが広がってくる。トングを使いグラスにピッタリ納まる四角い氷を3つ入れた。全ての所作が美しい。ボトルの透明なお酒を、三角のメジャーで量ってグラスに注ぐ。


「ウォッカです」


 私が珍しそうに見過ぎたのだろう。こっちを向いてニコッと笑って、説明をしてくださった。カウンターの下が冷蔵庫になっているらしい。少し屈んだと思ったら、見たことのない小さな瓶が出てきて、栓を抜くと、それをそっとグラスに満たしていく。最後に長いスプーンのようなもので、一回だけゆっくりとかき混ぜた。


「お待たせしました」


 コースターに乗せられ、私の前に鎮座するモスコミュール。

 可愛らしい貝殻のお皿にミックスナッツも出していただいた。


(自分はじっと見ていたくせに、こんなことを言うのもあれだけど……なんだか、人に見られたままグラスを口にするのは緊張するな……)


 バーテンダーは手元に出した道具をいつの間にか片付けてしまっていて、スッキリとしたカウンター越しに私を見ている。


 緊張する手が震えないことを祈りながら、グラスを持ち上げ口を付ける。

 ライムの良い香りと、シュワシュワと弾ける炭酸の細かなミストが鼻をくすぐる。


「美味しい……」

「ありがとうございます」


 白い長袖のシャツにシックな黒のベストを着たバーテンダーは、若くはなさそうだが、とても端正なお顔立ちをされている。


「お仕事帰りですか?」

「はい」


 仕事の事は思い出したくなかったが、こうした場所で話しかけるなというのは理不尽だし、失礼にならないよう話を切り上げるにはどうしたらいいのだろうと考える。


「お疲れさまでした」

「ありがとうございます」


 どうやら、先方から話を切り上げてくれたようなので、ほっと一息つく。




 ***




 開店と同時に来客があった。こんなことはいつぶりだろう。しかも、こんな清楚な女性が一人で……今日はツイてるな。もしかしたら引き返すだろうかと思いつつ、声をかけた。


「いらっしゃいませ」


 ひざ丈のスカートが好感が持てる。ストッキングを履いた足は生足よりもずっといい。俺はいつからこんな足フェチだったんだと、自分に呆れながら客のスカート下から視線を引き剥がす。


「よろしければ、ここに」


 まさかとは思ったが、奥のテーブル席に着かれると厄介なので、目の前の席をご案内した。

 その女性客を近くで見て緊張が走る。すとんとしたセミロングの髪にフチなしの眼鏡、化粧っ気はないが、すっとした顎と小さな口がセクシーだ。


「当店は初めてですか?」

「はい」


 飲み歩いている雰囲気の人ではないのは見ればわかる。分かり切った質問だったが、何を注文するのだろうと思いながらメニューを渡す。


「モスコミュールを」


 どうせ見ても分からないといった風にメニューを開いた瞬間に閉じ、そう言った。

 ゆっくりとメニューを脇に置く、その丁寧な仕草に好感が持てる。きちんとした格好と雰囲気を持ち合わせた極上の女性だ。


 モスコミュールなんて、目を瞑ってでも作れるカクテルだが……そんなにじっと見られるととちりそうになる。なんだ?なんだ?グラスに穴でも開ける気か?そう言いたくなるくらい凝視してくる。別に変なものは入れないから、安心して欲しい。


「ウォッカです」


 ほんの少し視線を泳がせたこの客は、勇気を出してまで、なぜこの店に来たのだろうか。明らかに緊張していて、楽しんでいる風ではないし、お酒を飲みたくて来たとも思えない。どうかゆっくりと思い描いていた通りの時間を過ごせますようにと願う。


「お待たせしました」


 失礼かとは思ったが、どんな顔をして飲むのか気になって目が離せなかった。

 グラスを口元まで持ってくると、ほんの一瞬、小さく息を吸い込んでからモスコミュールを口にした。ジンジャーエールがあなたの気持ちを癒してくれますように。


「美味しい……」

「ありがとうございます」


 こんなに普通の一言に舞い上がりそうになる。だって、今、本気で言っただろ?長くやっているから分かる。何でもかんでも「美味しい」って言うテンションと、こういう本気の「美味しい」の違いが。


「お仕事帰りですか?」

「はい」


 返事は期待していない。ただ、ほんの少し会話を交わしたという、俺の好奇心からだった。が、すぐに後悔する。明らかに話したくなさそうだ。頑張って非日常の世界に飛び込んできた女性に、酷い仕打ちをしてしまった。


「お疲れさまでした」

「ありがとうございます」



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