また、何度でも 〜北アルプス、黒部川源流釣行〜
香山黎
第1話 新穂高から鏡平山荘へ
午前四時半すぎ、外はまだ薄暗い。
すでに熊よけ鈴がいくつか通り過ぎたのを聞いた。
岐阜県高山市新穂高にある
少し準備運動をし、装備を最終確認して歩き出す。この駐車場は登山道から最も遠い上、本来の登山道に行き着くまでにまだ坂を下って、林道を三キロ以上歩かなくてはならない。
私が
それが悪天候により橋が流されたり、土日は悪天候が予想されたためリスケジュールが繰り返された。
もし特に北アルプスによく行く人であれば、何故三俣蓮華岳?百名山の鷲羽岳や雲の平を経由しての黒部五郎岳までを行程に入れるべきだろう、と思うだろう。
私がこの山を選んだのには登山以外の理由があった。
日本最高標高に住むイワナ。ふと手にした釣り雑誌の淡水魚特集に、北アルプスの黒部源流頭での釣果とそこまでの経路を記載したものが載っていた。
極限の環境で生命を紡ぐイワナ。その存在をぜひ肉眼で、見てみたい。手にしてみたい――。
登山と渓流釣りを趣味とする私はこの記事に心を惹かれた。
新穂高からわさび平小屋を経て小池新道を通り
所要時間三〇時間、歩行距離三六キロメートル、獲得標高二八〇〇メートル。危険箇所もなく、体力と釣りの道具、技術があれば一般人でも往復可能な行程だ。
結局流れ流れた計画が実現したのは九月最後の土日、両日ともに昼間は晴れの予報だった。
本来は二泊三日の予定であったが、普通の月末である。普通のサラリーマンである自分に有給が取れるだけの業務上の余裕はない。行程無理矢理車中泊からの一泊二日に修正した。
これだけのチャンスはもう二度と訪れないだろう。行く以外の選択肢はなかった。
鍋平駐車場からぬかるんだ山道を下り、新穂高登山指導センターに着いた。
トイレに行ったのちすぐに歩き出す。緩やかな林道には数名の登山者がすでに歩いている。夜中から歩き出した人も多いだろう。
一時間ほどでわさび平小屋に着いた。ここから少し歩くと林道が小池新道に入り、本格的な登山道開始となる。
私は少し荷物を整理したのち、すぐに歩き始めた。
道が砂利道から石を積んだ狭く、勾配のあるものに変わっていく。空気はより冷たく、足元に黄色の小さな花、ミヤマアキノキリンソウが揺れていた。
谷沿いの道は急で、視界は樹木に覆われている。急勾配であるが道筋はしっかりしていた。
夏よりは空気が冷たい分、歩くのは楽だ。
被っている帽子のつばから雫が落ちる。
私の心拍数が上がり、呼吸が荒れるのをコントロールしようとする。
秋の登山は汗冷えに気をつけて、汗をかかないように登りましょう?どれだけトレーニングを積んでも、汗をかく。
ただ単独行なので黙々と登る。
自然への賛美は次第に消え、一歩一歩が内省に向かう。
立ち止まって息を整え、水を飲む。
忌避していた記憶がふと、思い出された。
私は自分の小説を世に出したい、と思っていた。
とあることがきっかけで、ある人たちのためにそんな夢を持つに至った。
世に出すとはウェブでの公開ではなく、商業的に、という意味だ。小説家になりたい、というのはだいそれた夢だが、新人賞やら大賞を受賞しないと中々世に出すというのは難しい。
自力でそれが実現できるほどの文才はない。小説講座の門を叩き、小説家の指導を受けることにした。
酷評だった。
ほとんど意味不明、文字が埋めてあるだけ、という評価であった。
素人ゆえに酷評は仕方のないことだと分かっていた。文章がうまいとか、作文を学校で表彰されたことなど一度もないのだから、世間にどう評価されるかは分かっていた。
しかし、指摘が真実に近ければ近いほど、それは鋭い刃となって心に深く突き刺さった。
自分の作品は無価値でつまらないものに思えた。それも事実だ。
その寸評後、八月末締め切りを目指して書いていた作品は応募することができなかった。
途中で自分の作品があまりにも無価値で、つまらないものにみえてしまい、筆も進まなくなった。
登山の計画も予定通りにいかないことは私をさらに追い詰めた。
全てに否定されているかのような感覚に陥っていた。
私の作品は無価値だ。
私の小説はつまらない。
私の人生は無価値。
俺の、人生は!
怒りなのか、自己否定なのか、誰にぶつけることもできない感情を山にぶつけるように歩いていた。
やめよう。今は山に登ることだけに集中しよう。
呼吸を整えて、精神を落ち着ける。
一歩一歩、石に足を置き雑念を払う。
沢を渡ると、視界が開けた。
シシウドヶ原と呼ばれる中継地点に到達したのだ。テントやら衣服の詰まった十三キロ程のザックを下ろし、ベンチに腰掛けた。
眼下に白い川の流れと、谷と山をはさんで深く青いベールをまとったような穂高連峰が見える。
天気は最高だ。
ここまでくれば一時間ほどで鏡平山荘、そこからもう一時間で
「うわぁ、ええ景色やな〜」
「ほんと、来てよかったわ」
後続に賑やかな集団が会話をしながら近づいてきた。
話し方からして関西方面の登山グループだろう。新穂高からの北アルプス登山は地理上関西方面の登山客が多くなる。
関西からですか?と喉元まででかかった言葉を水とともに嚥下した。
明るく楽しそうな彼らの会話に割って入る気にはなれなかった。彼らの目には私の顔はどう映っただろう。随分辛気臭く見えたに違いない。
私はいたたまれなくなって、身支度をすると足早にその場を立ち去った。
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