第2話 双六岳中道から三俣蓮華岳

 その後、大きな中継地である鏡平山荘にも無事到達し、稜線への道へ向かう。


 鏡平付近は池が点在し、ナナカマドなどの木々が色付いている。幾人かが上等な一眼レフを構えて撮影にいそしんでいた。


 槍ヶ岳がその勇姿を水面にわずかに映す。もう少しはっきり映っていれば逆さ槍として〝ばえる〟画になるだろう。


 さらに高度を上げていく。百名山の笠ヶ岳から伸びる稜線に弓折峠で合流する。開けた空間に最高のパノラマ風景が広がる。


 樹林帯から解放されたおかげで、だいぶ足が軽くなった気がした。


 山の斜面に所々橙色や赤、黄色の部分がある。紅葉の季節に入っているのだ。


 やがて視界の奥に池と、色とりどりのテントが点在する、双六小屋テント場が現れた。大きく、平坦な台地のような地形である。


 小屋の前のベンチまで来ると、通過した鏡平よりも一層人が多く、賑わっている。


 こんな高山域にこれほどまで人がいると、ちょっとしたテーマパーク感があった。


 ベンチで談笑の花が咲き、若者たちが撮影や自撮りにいそしんでいる。


 ここもすこし居心地が悪い。


 私は隅の方の荷物を下ろし、昼休憩を取ることにした。


 ザックからメスティンとストレートの乾麺を取り出し、火をかける。


 沸いた湯に麺を投入し、鶏ガラスープと調味料を入れる。


 三分後、業務スーパーで買った安物の牛肉そぼろとインスタント味噌汁の具と味噌を入れ、かき混ぜる。飲み干せる味噌ラーメンの完成だ。


 気温が低いので直ぐに温度は冷める。


 湯気をかき分けて、麺をすする。味は二の次で塩分とエネルギーをとるため、一心不乱にすする。 

 咀嚼しながら自分の体調を思う。


 寝不足か、加齢のせいか、数年前北アルプスに来た時の体力的余裕はない。


 休憩のあと双六岳登頂も考えていたが、時間短縮を考えれば山頂は明日にして、中道と呼ばれる山頂を経由しないルートで三俣蓮華岳まで向かう。


 焦る必要はない。登山計画書通りだし、十分な睡眠の取れている二日目の方が容易に到達できるだろう。


 調理用具を片付け、ザックを担ぎ直す。

 食事の分だけ軽くなったはずだが、肩にずんと食い込む。


 大丈夫だ、確実に進め。


 私は自分に言い聞かせて、ゆっくりと歩みだした。


 足は相変わらず重く、息が上がる。


 身体の変調は標高が高く酸素が薄いことを伝えている。


 天候は相変わらず良い。昼のまばゆい光に照らされた枯れ草が黄金色に淡い光を発しながら揺れていた。


 槍や穂高の峻険な山なみに比べて、双六からのそれは穏やかで、これまでの道のりを除けば里山のようだ。


 腰から背丈ほどのハイマツから雷鳥でも出てきてくれれば疲れも吹き飛ぶのだが。

 私の淡い期待は実現しそうもなかった。


 中道は高度を上げて尾根道へと合流し、眼前にはこんもりとした丸みのある山頂に続いている。


 特段危険箇所もないが、六時間近く歩き続けた疲労が出ている。


 疲労は後ろ向きな心を連れてくる。


 もう疲れた、まだ歩くのか。


 三俣蓮華岳から三俣山荘、黒部川源流頭まで行って、一時間にも満たない釣りのために、釣れなければどうするのだ――。


 山に、釣りに、うまくいかない現実から逃げているだけではないか。目的を達成したところで何も変わらない。


 だがやめてどうなる――。いや、やめられないのだ。


 登山は誰にでもできるスポーツだ。だが他のスポーツと決定的に違うのは、一度歩み始めたら行程の途中で投げ出すことはできないということだ。もし怪我をしたら、野球やサッカーのような通常のスポーツであれば途中で交代できる。


 だが登山はグループ登山であろうと単独行であろうと、登りから下りまで徹頭徹尾自分でやりきらなければならない。


 それができなかったら遭難して家族、会社、行政や他人に多大な迷惑をかける、ということだ。


 逃避だろうが、なんだろうがやり抜かなくては、現実に向き合うこともできない。


 山頂まであとわずか、とにかく疲れても一歩ずつ歩むのだ。


 最後の登りに取り掛かる。呼吸に合わせて、一歩ずつ高度を上げていくと、なだらかな山頂へたどり着いた。


 すでに顔なじみのような、穂高連峰と槍ヶ岳。そこから北に大天井岳、燕岳と続くいわゆる表銀座と呼ばれる王道コースの稜線。


 すぐ北に見えるピラミダルな鷲羽岳、祖父岳、黒部五郎岳へ続く山なみ。


 三俣蓮華岳。美名である。


 周りの雄々しく名だたる山岳の中にあって、その名も山容もたおやめぶりと評するべきものだ。


 眼下にはハイマツの中に赤いトタン屋根の建物。これが三俣山荘だ。著名な紀行本『黒部の山賊』の中で紹介された山賊と呼ばれ、山で暮らす者たちが立てた山荘である。


 残りあと少し。下りで油断はできないが容易だ。私は最後にして最大の目的を胸に秘め、山荘への道を下り始めた。

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