第32話「隠し事」1

 あと一回、深呼吸したら——外に出る。


雪麗せつれいは胸の奥でそっとそう唱え、吐く息を整えた。


琳家の正門前。

重い木の門の向こうには、賑やかな街の喧噪が

広がっている。


一歩、踏み出せば外の世界だ。


「大丈夫……店の場所も覚えた。

 誰とも目を合わせなければ……大丈夫。」


被巾ひきん(スカーフのようなもの)で頭を覆い、

口元を隠す。


自分に言い聞かせながら、勇気を振り絞って

足を踏み出した、その瞬間——


「雪麗! どこに行くの?」

ピタリと足が止まる。


この声は……聞き間違えようもない。

振り返ると、案の定、愁飛しゅうひがニコニコと

満面の笑みを浮かべて立っていた。


「街へ、届け物に。」

言いながら、雪麗の表情が一気に曇る。


琳家では、主である凌偉りょういのそばに愁飛が仕え、

春燕しゅんえんのそばには雪麗が控えている。

だから、凌偉の隣に春燕がいれば、

必然的に雪麗のそばには愁飛がいる——。


このどうしようもない配置が、

雪麗にとっては日々の試練だった。


愁飛はいつだって笑っている。愛想よく、

誰に対しても柔らかいニコニコとした笑みを

浮かべ、声も穏やか。


けれど、雪麗にはその笑顔がどうにも落ち着かない。

まるで、仮面のように貼りつけられた笑み。

底が見えない、得体の知れなさ。


そして困ったことに、愁飛は何かにつけて

彼女に話しかけてくる。

雪麗はそのたびに上手くかわしてきたが

——できれば、あまり関わりたくない相手だった。


(もういい、さっさと出かけてしまおう……)

そう決意して、足を速める。


が——。


「あの……どうしてついてくるんですか?」

気づけば、すぐ隣に愁飛がいた。

歩調を合わせ、にこやかに。


「案内してあげるよ。」

まるで当たり前のように、柔らかく笑う。


「結構です。場所は聞いていますから。

愁飛様もお忙しいでしょう? お構いなく。」


「えー?市場は店も多いし、人も多いし、

一本道を間違えたら慣れてないと出られないよ!

道に迷ったらお嬢様に迷惑かけちゃうんじゃ

ないかな〜〜?」大袈裟に両手を広げ、

芝居がかった口調で愁飛は言う。


(……くっ。この人に頼むのは嫌だけど……)

(お嬢様にご迷惑をおかけするのは絶対に嫌だ…!)

「……お願いします。」

嫌々ながら、小さく頭を下げる雪麗。


唇がぎゅっと結ばれているのを、

愁飛は面白そうに見つめていた。


「任せて!」そう言って、ニコニコと微笑んだ。

相変わらず、どこまでも作り物めいた笑顔。

雪麗は小さくため息をつきながら思う。


——本当に、この人だけはどうにも苦手だ。

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