反出生主義もまた物語

人が子を産み、育て、死んでいくのも物語だ。それによって社会は世代を超え継承されてきたが、その物語とは別の物語があっていいのではないのか?

人は遺伝子だけでは伝えられないものも様々なメディアを使うことで伝えることができる。遺伝子だけが継承されているわけではない。言葉によって伝えられるもの、言葉を抽象化することによって伝えられるもの、仕草、音。

人間は自分の遺伝子に対してリアリティを感じやすいのかもしれない。だがリアリティ自体が様々なフィクションによって成立している。おそらく反出生主義もそのなかの一つだろう。自分の遺伝子を伝えることを放棄する、その思想や概念を次の世代に伝える。それがめぶけばいいし、そうでなくてもいい。

別に人類が仮に子孫を残せなかったとしても人類が存在していたことを伝えられればいい。人類が存在していた残り香を後世に伝えるだけでもいい。

フィクションが自分のリアリティを侵食し苦痛を広げていく場合、様々なフィクションを拒否し自分の人生というフィクションを誰にも伝えずに人生を終える権利もまたあるだろう。苦痛の継承を拒否する権利もあるだろう。苦痛はフィクションかもしれない。だがフィクションがリアリティを持つのなら存在することと同じなのだ。

子供を作るというのはそういう様々なフィクションを強制的に継承させるということだ。子供が生まれたというリアリティから子供のフィクションが生まれるのだ。様々なところでうまれたフィクションが子供のフィクションと融合しとてつもないものを受け継がせてしまう。

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