第3話



「昔な、幼馴染が死んだことがあった」


 立花の声は淡々としていた。

 それでも、言葉の裏に冷えた鉄のような痛みが滲んでいた。


「田舎の親父さんが危篤だって連絡を受けてな。会いに行くって言って夜通し運転してて、その先で事故っちまった。馬鹿な話だよ。死に目に会いに行く前に死ぬんだから」


 紫煙がゆらゆらと立ち昇り、街灯の光に淡く溶けていく。甘い匂いが夜の冷気に混じり、ハルカの鼻腔を掠めた。


「今でもそいつとの思い出は残っている。バカ騒ぎして笑い合ったことも、喧嘩したことも、時には歌ったこともあったな。全部覚えている。姿も顔も、何をやっていたのかも、すぐに思い出せる」


 立花の声が、冬の夜気に溶ける。空気の粒子が僅かに震え、音が静かに拡散していく。


「だけど、な……。なんでだろうな。あいつの声は、もうほとんど覚えていないんだ」


 ハルカの心の奥がざわりと震える。

 自分の声も、もしかしたら同じように消えていくのか。そう考えた瞬間、冷たい夜気が肌の奥まで浸透し、骨の隙間にまで寒さが染み込む。

 怖いよ、と幻聴を聞いた気がした。恐怖が静寂の裂け目からひっそりと広がり、躰を細かく震わせた。


 冬の街灯が二人の影を長く引き伸ばす。紫煙が揺れ、街灯の輪郭が淡く滲む。立花の吐く息も、空気に溶けて微かな気配となる。


「……それからだな。声や音に興味を覚えたのは」


 凍った街の気配が、その言葉の余韻に染まっていく。すべての光と影、音の欠片が、心に重く落ちそこに確かな現実として沈む。言葉のひとつひとつが、静かに、しかし確実にハルカの内側に刻まれていった。

 微かな沈黙が二人を包む。それを先に破ったのは立花の方だった。


「いや、すまんな。おじさんてば、若い子に何を聞かせてるんだか」


 立花は大袈裟なくらいに笑って見せ、二人の間に漂っていた微妙な空気を弛緩させた。けれども、ハルカはただぼんやりと立花の顔を見ていた。


 脳裏を掠めたのは、妹の顔だった。病室で二人並んで歌を歌っていたあの日々が鮮明に思い出せる。

 白い砂浜が見えた。潮騒の音と海の香りがハルカの記憶を揺さぶる。二人して病室を抜け出しては笑って、時には喧嘩して怒って、母親に叱られては泣いて、二人で歌って。

 そして、旅立つ日に妹は―――。


「……立花さん」


 声を出す自分が、まるで透明になったように感じる。街灯の下で揺れる影が、夜気に溶けていく。指先が少しだけ震えた。


「……どうしたら、歌手になれますか?」


 思わず漏れた問いかけ。答えを知りたい。でも、その答えが心をさらに揺さぶることを恐れる。立花は視線を僅かに細めた。


「君は……何のために歌っているんだ?」


 冷たさはなく、しかし核心を突く鋭さがあった。

 ハルカは視線をアスファルトに落とし、ある筈のない答えを探す。


「……わたしは……、ただ歌手になりたくて……」


 口にした言葉は、驚くほど軽く泡沫のようだった。しかし心の奥では微かに痛みが波打つ。願う理由の濁りに気付かないふりをしても、思い出は容赦なく押し寄せる。


 甘い煙草の匂いに混じる病室の消毒液の臭い。電話越しに聞こえる母の泣き声。弱っていく妹の姿。無機質な壁と天井が点滅する蛍光灯の光に反射する。断片的な光景がちらつき、痛みが静かに内側を這っていく。


 立花は沈黙したまま、視線をネオンの揺れる光に流す。

 やがて小さく肩を竦め、低く呻くように呟いた。


「……そうか」


 一言にすべてを込めた響き。理解と揺さぶりが、静かにハルカの心に届く。彼女は息を整え、夜の街角を見渡す。通行人の影は伸び、街灯に揺れる光にぼやける。誰もこちらを見てはいない。孤独の中で、自分の歌の行く先に迷いが絡みつく。


 指先で弦を撫でる感覚が、僅かな存在理由を伝えている気がした。木の胴の振動は、孤独と責任、夢への焦燥、妹の残像、母の面影を複雑に絡め取り、心の奥で波紋を広げる。立花の視線はその混乱を映す鏡のようで、見透かされる感覚に躰が震えた。


 ギターを抱えた手の冷たさが妙に生々しい。弦の振動が心に震え、痛みと濁りが一体化する。夢を叶えたい気持ちは確かにある。しかしその奥に、誰かの願いを背負う重みが潜んでいた。


「……解らないんです。どうすればいいのか。でも、なるしかないんです」


 やみくもに歌って、誰にも届かなく、形に残らないままで。

 そんな自分は嫌だった。許される筈がない。許されていい道理がある筈がない。


「それは、俺にはどうしてやることもできないな」

「……はい、わかってます。すみません、こんなこと言って」

「前にも言ったが、良くできていると思う。ただ、歌手になれるかは、別だな」


 現実が押し寄せて来る。まだ、妹の声は覚えている。調子が外れた歌声も、未だ覚えていられる。


「でも、このままだと、歌が、妹が消えちゃう。声が……なくなっちゃう」


 でも、それはいつまでだろうか。

 崩れ落ちていく予感に苛まれながら、ハルカは水の中に沈んでいく感覚に捉われた。藻掻き、足掻いているのに底へと引き釣り込まれるような恐怖が心を支配している。


「落ち着け、お嬢ちゃん。一体、何を焦ってるんだ? 君はまだ若いんだからゆっくり研鑽していけば、もしかしたらもあるだろう?」


 窺うような、探るような視線を向ける立花に、半ば反射的にハルカは叫んだ。


「それだと、遅いんです! 意味がないんです!」


 形にしないといけない。生きた証を刻まないといけない。

 そうじゃないと、何も残らない。ただ、失ったという事実だけがそこに残る。

 忘れてもいい、と言っていた。でも、とハルカは否定する。


「……何があったんだ?」


 雑居ビルが立ち並ぶ冬の都会でただ一人。心配気に見つめる立花の存在すらも、ハルカには煩わしかった。そう思ってしまう自分が嫌だった。


「…………すみません、帰ります」


 短くそう告げると、ハルカは機材を乱雑にまとめ、踵を返した。

 足音だけが、冷たいアスファルトに乾いた響きを残す。行く宛も、帰る場所もないまま、ハルカは迷子の子どものように夜の街を彷徨う。ビルの谷間を吹き抜ける風が、音もなく髪を揺らしていた。


 立花は、その背中を追うことも、声をかけることもしなかった。

 ポケットから煙草を取り出し、唇に挟む。火をつけると、赤い火点が一瞬だけ夜の闇を裂いた。紫煙を吐きながら、彼はふと空を仰ぐ。


 都会の狭い空は、鈍色の雲に覆われていた。

 月は姿を隠し、星の光さえ届かない。世界は、見えない薄膜のような闇に包まれている。


 不意、と立花は視線を下ろし、振り返った。


 黒い髪が風に靡き、雪のように白い肌が街灯の光を跳ね返す。

 あまりにも白く、あまりにも静かなその影は、現実の輪郭を微かに歪めて立花を見詰めていた。




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