第4話



 いつまでそうしていたのかすらも覚えていない。

 遠くでずっと残響のようにサイレンの音が響いていた。微かに頭痛がする。焦げた臭いが、辺り一面に漂っているような気さえした。


 街灯の下、空気は刃のように冷たかった。息を吐くたびに白い霧が立ちのぼり、すぐに夜に溶けて消える。遠くの車の音も、人の声も、分厚いガラスの向こうで鳴っているみたいにぼやけていた。

 肩にかけたギターケースがずしりと重く、ベルトが食い込む痛みが皮膚の奥に残る。その痛みが、なぜかやさしく思えた。今にも崩れそうな心を、かろうじて現実に繋ぎとめてくれている気がした。

 涙は、こぼれそうでこぼれなかった。冷たい夜が、それを凍らせてしまったように。


「……どうしたらいいんだろう」


 呟きは夜に吸い込まれ、心の奥で微かに震えた。

 耳の奥では、まだ妹の歌が鳴っている。あの日、笑いながら一緒に口ずさんだ旋律。潮の匂いをまとった風。砂の上で転げ回って笑う横顔。その全部が、冷たい水の底に沈んでも、輪郭だけは消えずに残っていた。


 歌いたい理由が、自分のためなのか、妹のためなのか分からない。

 声を出しても、きっと誰にも届かない。それでも沈黙でいることの方が、ずっと怖かった。

 心の奥が焼けるように痛み、妹との約束だけが濁った水底でゆっくりと揺れている。


 街灯の影に溶け込むように、ハルカはそっと息を吸い込む。夜は静かで冷たく、そして無慈悲なほど長い。指先が小さく震える。声が、歌が、消えてしまう前に。自分は何を遺せるのか。答えは霧の向こうにぼやけて見えない。

 それでも、心の底にだけ確かなものがあった。


「私は、歌わなきゃいけない」


 その声は囁きであり、決意であり、祈りだった。

 夜の街を駆け出す。冷たい空気に、肺が押しつぶされそうだった。足が縺れて転びそうになる。それでも、構わないとばかりに腕を振り上げ走り出す。景色は流れ、夜の闇に自分の躰が溶けだしていく。

 前へ前へと進むうちに、どこか遠くで、サイレンの音が聞こえた気がした。明滅する赤い灯が、街灯の白に混ざり合いくっきりと輪郭を映し出す。焦げた臭いが、微かに漂う。ブレーキ音と泣きじゃくる声が脳裏を過ぎった。甘い煙草に混ざる消毒液の臭い。肺が押しつぶされて残った空気が一気に絞り出されるような感覚が襲い掛かる。


 呼吸が荒い。意識が朦朧としていく。薄靄の先に、白い砂浜が見える。潮騒の音が聞こえる。足元にひやりと波が触れる。

 月光が海を照らし、星々がゆっくりと呼吸している。仄暗い水面は穏やかに揺れ、静かにハルカを包んでいた。


「ターン、ララ、ターン」


 少し調子の外れた妹の声が、波の合間に響く。

 風に揺れる長い髪が月を弾き返し、夜の海よりも深く蒼く光った。

 その美しさが、ほんの少しだけ痛かった。何年も、整えることしかしてあげられなかった髪。あの時からずっと、後悔は形を変えて心に棘のように突き刺さっている。


「……月光?」

「正解」


 妹は笑った。喜びと寂しさが混ざり合った笑みだった。リズムを刻むように砂浜に足跡を刻む。

 視線の先で地平の向こうに何かを探すように目を細め、声は風に溶けて消えた。


「抜け出したの、バレたら怒られるかな」

「構わないよ。代わりに私が怒られてあげる」

「あはは、だめだよ。お姉ちゃんのせいにできない。一緒に怒られよう」


 波が足首を撫でた。塩の冷たさが、夢の底で現実のように感じられた。

 外に出たい。そのたった一言さえ、妹はずっと喉の奥で躊躇っていた。病室の外に出るには、いくつもの手順と、いくつもの許可がいる。誰にとっても取るに足らないその手間が、彼女にとっては小さな奇跡だった。


「いいのよ。お姉ちゃんだもん。それくらいしかしてあげられないし」


 だから、ハルカはこっそりと妹を連れ出した。

 病院の外に出るのは許されていない行為だと分かっていた。それでも、妹の小さな願いを、叶えてやらずにはいられなかった。

 一歩ずつ砂浜を歩くたびに、心の奥がぎゅっと痛む。こんなささやかなことしかしてあげられない自分が、情けなくてたまらなかった。


「そんなこともないけどな。一緒に遊んでくれるし、そばにいてくれるし。歌も歌ってくれる。でも、学校に行けないのは、やっぱり少し寂しいかも」


 妹はまた小さく笑った。

 風がその声をさらい、海の匂いに溶けていく。

 笑みが空気に散るたび、ハルカの心は罪悪感と幸福の混ざった重さで揺れた。


「でもね、こうやって外に出られると嬉しいの。空がちゃんとあるってわかるから」

「そんなの、いつだってあるじゃん」

「……でも、私が見ないと、なくなっちゃう気がするんだ」


 ハルカは言葉を失った。

 波打ち際の白い泡が足もとで砕け、砂の奥へと吸い込まれていく。夜の海は静かで、深く、やさしかった。

 だけどその静けさが、どうしようもなく恐ろしかった。


 不憫だと思った。哀れだとも思った。

 それでも、同情だけは絶対にしてはいけないと、ハルカは心の奥で誓っていた。


 潮風は澄んでいて、肌に触れるとひんやりと冷たかった。広がるのは何もない田舎の景色で、療養にはもってこいの退屈さだった。都会のざわめきも、光の刺すような熱気も、ここにはない。


「ねえ、お姉ちゃん」

「ん」

「明日いっちゃうんだよね」


 ちくりと痛む。そうだ。ハルカは都会へといく。妹と母を、この小さな町に残して。


「あ、ごめん。こんな言い方して。責めてないよ。本当だよ」


 妹は軽い調子で笑った。けれどその笑みは、波のように薄く揺れて、どこか脆かった。

 決して心の底を見せない、よくできた仮面のような表情だった。


「わたしが望んだんだもん。それでお姉ちゃんが決めて、お母さんも応援してくれる。

 だからしっかり歌手になって帰ってきて、真っ先にわたしに報告してね」


 その声が、潮騒に掻き消される。ハルカは何も言えず、ただ波間に滲む月を見つめた。

 こんな顔を浮かべさせるしかない現実に、遣る瀬無さが込み上げた。


「うん、もちろん。いっぱいお金も稼いで、もっと良い所にもつれてってあげる」


 ハルカは妹の髪をそっと撫でた。潮風に僅かに湿った絹のような感触が、指先にまとわりつく。その柔らかさは、陽の光を知らない髪のそれだった。

 陽に焼けた自分の髪とはまるで違う。触れるたび、心の奥に小さな痛みが生まれる。


「良い所かー。わたし京都とかいってみたいな。修学旅行いけなかったし」

「別に大したことないよ、あんなところ。神社とお寺しかないし。古臭いし、排他的だし。嫌味ばっかでさ。それに今は外国人ばっかりだからね。疎外感しかない」


 言葉を吐いた瞬間、ハルカは後悔した。

 月光に照らされた妹の笑みが、ほんの一瞬、揺らいだ気がした。

 海からの風が強まり、波の音がひときわ高くなる。その音が、二人の間の沈黙をそっと覆い隠していく。潮騒が、言葉の届かない思いを運び去っていった。


「ふーん、そうなんだ。でも、ちょっと行ってみたいかも」


 それきり、妹は黙り込んだ。小さく唇を結び、地平線のほうを見つめている。

 ハルカのささやかな嘘を、きっと見抜いたのだろう。彼女は微かに息を呑みこむと、波間に目を向けたまま答えた。


「……あんたがいきたいならどこへでも連れてってあげるよ」

「うん。楽しみに待ってるね」


 潮の匂いが濃くなる。

 波打ち際に映る月が、ふたりの影をゆっくりと揺らしていた。

 その光が、一瞬だけ妹の頬を照らし、まるで涙のような輝きを残した。


「…………海って、夜になるとちょっと怖いね」


 ぽつりとこぼれた妹の声は、恐ろしいほど静かだった。

 光を飲み込み、底知れず続く水面の下に、なにかが潜んでいる気配がする。

 ハルカは、背筋が僅かに硬直するのを感じた。


「でも、綺麗だよ」


 妹は小さく笑みを浮かべ、夜空に目をやる。

 その横顔は、月光の輪郭にすべてを委ねるように儚かった。


「お月様、ちゃんと見ててくれる」


 その声は波音に飲まれて消えた。

 ハルカは無意識に妹の手を握る。

 冷たい指先。細くて、ガラスのように砕けてしまいそうで、それでも確かな温もりがあった。


「ねえ、お姉ちゃん」

「なに」

「もしも、私がいなくなったら」

「やめて」


 反射のように言葉が出た。

 風が止み、世界から音が遠のく。波の気配も、月の光も、どこか遠くへ引いていく。


「そういうの、言わないで。今は、いるじゃない」

「うん。でも、もしもだから」


 妹は穏やかに笑った。

 その顔は月光に溶け、肌の輪郭が淡く透けて見えた。


「私、怖いの」


 海面に映る月光が、ふたりの影を揺らす。

 言葉の余韻が潮の匂いと混ざり、ひんやりとした夜気が心の奥に広がった。


「死ぬことが、じゃないの。それは怖くない訳じゃない。でも、こんな心臓だし、ある程度は覚悟もできてる。ううん、本当は長すぎたくらい」


 ハルカは何も言えなかった。いや、言わせてもらえなかった。

 夜風がそっと髪を撫で、潮の匂いがふたりの間をゆっくりと流れていく。


「私が怖いのは死そのものじゃない。皆の記憶から消えていくこと」


 ハルカの心の奥がずきりと痛んだ。

 波がひとつ砕けて、月の光が細かく散る。


「先生も、看護師さんも、お母さんも、お姉ちゃんも。きっと私のこと、忘れちゃう」

「そんな訳」


 妹は軽く首を振る。それが絶対の真実なのだと確信しながら。


「いいんだよ、それで。何かで読んだの。『心を癒すのに必要なのは時間と、忘れる事』だって。忘れるって、それだけ私のことで傷ついてくれた証だと思うんだ」


 その声は、波の奥から響くように遠い。

 優しく、淡く、消えてしまいそうなほど静かだった。


「……残酷なことを言うよね。でも、それが嬉しいの。

 何もできなかった私でも、誰かの痛みになれたなら、確かに生きてた証になるから」


 えへへ、と無邪気に笑う妹にハルカは何も告げられなかった。


「変だよね。最低だよね。傷つけることでしか、自分を残せないんだ」

「…………そんなこと、あるはず、ない」


 自分の口から出た言葉が、どこか他人の声のように響いた。

 目の前の妹は、光の粒になって指の隙間からこぼれ落ちそうだった。その儚さが怖くて、ハルカは反射的に手を伸ばす。頬に触れると、驚くほど柔らかい。生まれたばかりの子のように。

 その温もりが確かにそこにあるのに、心の奥ではもう別れの気配がしていた。


「……私は、そんなの、認めない」


 その声が震えていたのか、夜風が揺らしただけなのか、自分でも分からなかった。

 それでも今、言わなければ。伝えなければ。唇が小さく震える。


「あんた言ったじゃない。お姉ちゃんは歌手になれるって。それで証明してみせる。あんたが生きた証を、形にして残す。あんたと一緒に作った、この歌で―――」


 心の奥が焼けるように痛くて、言葉は途切れながらも溢れ出した。

 夜の海が、その声をすくい上げるように波打っていた。


「……そっか」


 それが届いたのか、届かなかったのか。

 ただ、妹が少しだけ微笑んだ気がした。頬を寄せ、微かな息で囁く。


「ありがとう、お姉ちゃん」


 手を離し妹は一人で砂浜を歩いていく。

 ハルカを置いて、先へと行く。


「ターン、ララ、ターン」


 そうして、調子外れの歌声を口ずさんで足跡を刻む。

 そのたびに、嘘みたいに波にさらわれては消えていく。


 残るのは、歌の余韻とハルカだけだった。


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