第5話



 風が止み、潮の匂いが遠ざかる。

 風景が一瞬ぼやけ、音だけが残った。妹の声でも、波の音でもない。


 それは、自分の荒い呼吸だった。


 いつもの場所、いつもの舞台。誰もハルカを見ていないし、誰も気にしていない。

 準備を整えて、そのままの勢いで声を出そうとして、俯いてしまう。

 何がしたいんだろうか。どうしたらいいんだろうか。鮮明に思い出せる。自分の在り方も、夢の続きも見れる。妹の声も約束も、まだハルカの中で息づいている。

 でも、いずれはなくなってしまう。このまま何もできずに、何も形に残せなかったら。妹は消えてしまうのだ。


 迷い、悩み、虚空へと視線を向けた時。立花が少しだけ疲れた様子で、ハルカの事を見ていた。

 彼は無遠慮に近付いて、マイクを指差す。


「今日は、歌わないのか?」


 挑むような、試すような視線だった。反射的にハルカは自分の腕を掴む。

 しかし、それを咎めるように立花は声を出した。


「君が握るべきはネックとピックだ。腕じゃない。違うかい?」


 思わず視線を上げる。

 無表情に、無感情に、ハルカの一挙手一投足を真剣に見ている。

 反発心か苛立ちかは定かではない。

 でも、結局のところ、どれだけ悩もうと悔やもうと、ハルカにあるのはこれしかなかったのだ。


 静寂の中、バラードが始まる、はずだった。

 けれど左手の指先は弦の上で迷い、音は途切れ、何度も外れた。そのたびに、小さな痛みが胸の奥を刺す。現実が、指の感触を通してじわじわと滲み出してくる。

 右手のピックも不安定で、リズムは崩れ、雑踏のざわめきが混ざり込む。街灯の光はにじみ、人の影が水彩のように揺れていた。

 世界が一拍遅れて、ハルカの呼吸と歌に追いつこうとしている。

 まるで、誰かが見えないところで、彼女の時間だけを少し遅らせているようだった。


 心の奥で、あの調子はずれな妹の声が波紋のように広がる。かすれた声は途切れ、思い通りにならず、次第に静寂が支配を始める。

 立花はそんなハルカを見て、怪訝そうに眉根を寄せると小さく溜息を漏らした。


「今日はいつにもまして、下手くそだな」

「……なんなんですか」

「気づいてないのか? それとも、気付かずにいようとしてるのか?」

「どういう意味ですか?」


 問い詰める声音は硬かった。動揺して手が震えるのに抵抗するように、ハルカは立花を睨みつけた。

 立花の視線は冷たくも、鋭くもない。ただ静かに、心の奥の揺れを見透かすようで、言葉が波紋のように広がる。


「前から言ってるだろ。歌詞も、曲も、悪くないって。

 胸に切なく訴えかけながら、それでも幸せだったと歌う癖に、なんで、今の君の表情はぐしゃぐしゃに崩れそうになっているんだ。

 どうして、そんな風に自分を隠すように震えているんだ?」

「…………放っておいてください」


 半ば捨て鉢になってハルカがそう呟くが、立花は肩を竦めるだけだった。


「あのな。そんな今にも泣きそうな顔でいて、放っておいてくださいって言われて、はいはい、じゃあねってできる訳ないだろ。おじさん見てられないよ」


 そのまま煙草を取り出し口に咥え、火を付ける。甘い香りだ。今にも振り出しそうな鈍色の空へと紫煙が舞い上がっていく。


「どうして私に構うんですか? 関係ないじゃないですか」

「それは、そうだな。君の言う通り、関係ない。だけど、前に少し話しただろう。幼馴染が死んだ話だ」


 立花の視線は雑居ビルの屋上へと向いていた。まるでそこに誰かがいるみたいに。


「君はあの時の幼馴染に少し似てる。焦って、何か大事なものを失う前の、あいつの顔に。だから、だろうな。なんだか、放っておけないんだ」


 そのまま俯いてしまう立花に、動揺するようにハルカは言葉を紡ぐ。


「立花さんは、その幼馴染さんのことを」


 言いかけて、ハルカは口を閉ざした。

 罰が悪そうに軽く頭を下げる。


「……いえ、すみません。野暮な事を聞きました」

「いいや、野暮なんかじゃない」


 立花は小さく首を振り、何でもないように笑ってみせた。

 その仕草が、ハルカには痛いほど優しく見えた。


「好きだったよ。とても大事で、大切だった。でもな」


 少し息を吐いて、言葉を探すように視線を落とす。


「そういうのって死んでから気付くんだよな。

 手が届く内は、何でもないのに。本当に手が届かなくなってから、気付く。本当に、不思議だよ」


 立花はそのまま息を吐き出し、天を仰ぐ。その姿がどうしてか、妹の姿と重なって見えた。


「だから、俺は音を拾い続けてるんだろうな。あいつの残した痕跡を少しでも取り戻したくて、記録として録音してるんだと、思う」


 立花は静かに笑った。でもその笑みは泣いているようにハルカの目には見えた。


「何にしても、こんなの代償行為なんだよ。そんなの解ってる。でも、そうでもしないと遣る瀬無くてさ。何もしないでいると、きっと、もっと早くにあいつの声を忘れちまう気がするんだ」

「……その気持ちは、わかる気がします。だから、私は」


 そうだ。だから、ハルカはずっと悩んでいるんだ。

 妹との約束と自分の夢の狭間で揺れ動いている。


「だから、私は―――歌ってるんだと思います」


 ハルカは言葉を絞り出すように言った。それは祈りにも懺悔にも似ていた。

 声は震えていた。吐く息が白く散って、夜の空気に溶けていく。


「私の夢は、あの子との約束に変わりました。でも、それはいいんです。

 だって、妹の声を……忘れたくない。消えてほしくない。あの子が生きてた証を、私が覚えていないと、全部なかったことになっちゃう。

 だから、歌ってる。歌手になって“形”に残したいと願ってる」


 ずっとずっと、ハルカの中で絡まっていた糸が解けていく。

 母から電話があった。危篤だと告げられた。駆け付けたら、機械に生かされている妹の姿があった。


「だけど、ううん。だからこそ、純粋に、あの楽しかった時みたいに。妹が褒めてくれたあの頃みたいに、もう……歌えないんです」


 彼女は言葉を飲み込む。心の奥に溜まった何かが、喉のあたりでつかえて動かない。それでもどうにか言葉にしないと、吐き出さないと、とハルカは嗚咽交じりで声を出した。


「もう、あの子は決して私の歌で喜んでくれない。笑ってくれない。一緒に歌ってくれない。だって、死んでしまったから」


 視界が赤く明滅する。簡素な機械音が、記憶の奥で断続的に鳴る。

 母の泣きじゃくる声。呼吸器に繋がれた妹の姿。それでも、微かに灯った命の火を、必死に守ろうと鼓動が震えているようだった。


「―――君はずっと、一人じゃなかったよ」


 立花の声は穏やかな波のようで、咎めも慰めもなく、ただ静かに肯定する響きだけが心に入り込む。


「妹さんはもう、聴く側から、君と一緒に歌う側になったんだ」

「……一緒に、歌う側?」


 立花はゆっくり頷く。抑揚には嘘も、飾りもない。

 ただ、揺るがぬ真実を伝えるようだった。


「ああ。君が歌うたびに、妹さんの声も揺れる。君の中にある記憶が、音となって外に出ている。形に残そうとしなくても、君の声の奥には、妹さんの声が確かに響いてる」


 ハルカは胸に手を置き、瞼をそっと閉じた。そこに答えがあるように、妹の笑顔が思い出され、心に柔らかな温もりが広がる。涙がひと粒頬を伝ったが、その奥には軽やかな光が差し込んだ。


「……そんなふうに、考えたこと、なかったです」

「考えなくていいさ。感じるだけでいい。君が歌うたび、君の中の“彼女”が息をしてる」


 夜風が頬を撫で、冷たく澄んだ空気がぽっかりと空いた胸を通り抜ける。

 その瞬間、立花の言葉が静かに夜の闇に溶け込み、遠くの街のざわめきが、まるで彼の声を包み込むように静まった。ハルカの心に温かい何かが芽生えるのを感じた。


 涙を拭い、くしゃくしゃの表情を引き締める。スタンドマイクの前に立ち、息を整えた。肩に食い込むストラップを直し、ギターを抱え直す。


「―――歌います」


 空を見上げる。鈍色の空から、はらり、と雪が舞い降りていた。冬の匂いだ。

 冷たい夜空に街灯の光が点々と浮かぶ。その光が、あの日見た丸い月の記憶を運んでくるようでハルカの心を微かに揺らす。ざわめきが広がり、凍てつく空気に微かな緊張が混じる。胸の中で、何かが静かに消えゆく予感が広がった。


 ネックを握り直し、ピックを掴む。

 妹と過ごした日々が幻のように蘇り、幸せだったあの時の温もりが躰を通り抜け、背中を押すように優しく包む。


 指先が弦に触れる。微かな振動が手のひらを伝い、腕の先まで柔らかく響く。

 一音目。静かに弾き出すアルペジオは、街のざわめきの合間を縫うように、凍てつく夜空に波紋を描いた。


 胸の奥で歌が鼓動のように震える。アルペジオがその微振動を拾い上げ、呼吸と声がひとつになって、心の奥の焦燥と愛情を静かに揺らす。かつての幸せな日々の輪郭が、遠い街の冷たい光の中に浮かび上がり、今もなおハルカの中に生き続けている。

 静かな夜風が頬を撫で、街の匂いと雪の匂いが微かに漂う中、歌声はそっと溶け込み、街灯の明かりに寄り添い温かな光を放つ。旋律が胸の奥へと届き、妹との記憶が生き生きと甦る。声は強く、しかし優しく雪の中へと消えていく。


 その旋律に胸が満ちていくと同時に、視界が少しずつ溶け出す。

 都会の冷たい夜景は、白い砂浜へと変わり、足元に柔らかい砂が広がり、波の音が微かに響く。心の奥の妹の記憶が、潮騒の調べと重なり合う。


 指先の重み、息の切れ目ごとの声の震え。すべてが心に浮かぶ妹の笑顔に寄り添い、記憶をそっと映し出す。アルペジオのひとつひとつが波打ち、声の震えが潮風に溶ける。


 その瞬間、妹の姿が目の前に現れた。いるはずのない存在。黒い髪が揺れ、唇が音に合わせて動く。旋律と声が重なり、境界はゆっくりと消えていく。


 同じ旋律を歌う妹。懐かしい笑顔が胸に灯る。声の震えが夜風や波音と絡み、弦の振動が手のひらから腕、胸へと伝わる。呼吸と声、指先と弦が互いに呼応し、空間を満たす。小さな間や空気の揺れ、ネックを滑る指の感触。二人並んで浜辺を歩いて、生きた証を軌跡として刻む。


 そのすべてが歌声に共鳴し、記憶の波紋を描く。


 心の奥に、幸せだった日々が月光のように静かに広がる。旋律が終わりに近づくたび、指先の振動と声の余韻が胸で揺れながら、ただ優しい記憶を抱きしめる。


 ああ、終わらないでほしい。このまま、ずっと歌っていたい。

 ねえ、神様。もう少しだけ。ほんの少しだけでいいんです。


 サイレンの音が聞こえる。誰かの悲鳴。焦げた臭い。動かない躰。

 予感はいつでもあった。それでもハルカは見ないようにずっと蓋をしていた。そうしてしまわないと消えてしまうから。


 最後の声を肺の空気を絞り出すように吐き出す。指先に伝わる弦の微振動が、心の奥の焦燥と愛情に重なる。


「―――お姉、ちゃん……?」


 声が雑踏の中に溶けて消えていく。黒い髪を靡かせ、戸惑いとも困惑ともつかない表情のままハルカを見つめる。いや、そうではない。視線は僅かに虚空を見詰め、違う方向を向いている。胸に残る傷跡を握りしめながら。


 最後の一音を弾き、指が弦から離れる。

 声は震えているけれど、悲しみではなく、愛しさで満ちている。

 アルペジオの余韻は夜空に溶け、潮騒が音の間をすり抜け、空気に溶け込む。

 胸の奥にあった妹の笑顔と目の前の妹の表情が重なる。ゆっくりと、確かに生きている。その確かさが静かにハルカの全身を包み込んだ。


「―――さようなら、カナタ」


 その声が届いたかどうかはわからない。

 光の粒のように宙を漂い、涙は軌跡となって地面に吸い込まれ、輪郭は雪の降る夜に溶けていった。


 残るのは弦の余韻と声だけが刻んだ存在の証。

 ハルカの声は、世界から雪のように静かに溶けていった。


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