第九話 森哭きの女王―常世の樹―①

 足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。

 湿り気のない冷気、息を呑むほどの静寂。

 ひかりの周囲だけが“時間から切り離された”ようだった。


 枝の擦れる音すらなく、木々はまるで呼吸を止めている。

 風も虫も鳥もいない。

 ただ、森そのものが、待っている。


「……ここが、ユグラの根の在処」


 足元の土がわずかに波打つ。

 歩くたびに、靴底の下から低い脈動が伝わった。

 それはまるで、地中に眠る心臓が、彼女の歩みに応えるかのようだった。


 やがて、霧が立ちこめる。

 濃く、重く、光を呑み込む黒の靄。

 その中で、無数の木霊が泣いていた。


『ナマエ……ナイ……イタイ……』

『返シテ……流レタイ……』


 それは悲鳴ではなく、祈りの声。

 名を喰われ、流れを失った命たちの、微かな残響。


 ひかりは静かに目を閉じ、掌を胸に当てる。

 火の理を鎮め、木の理を受け入れる。

 心を空に――ただ、聴く。


「……ユグラ。あなたは、どこにいるの」


 その問いに応えるように、大地が鳴った。


 ドン――と低い鼓動。

 それが一度、二度、三度。


 霧が渦を巻き、森の奥で黒い塊がうごめく。

 幹のようでいて、獣のようでもある。

 土を割り、枝を裂き、巨大な樹の影が姿を現した。


 幹はねじれ、枝は天を覆い、根は地を呑み込む。

 樹皮の間からは、黒い液体が滲み出し、土を焦がしていた。


 その中心――微かに光る“白い核”。

 かつて山姥が言った、“名を喰らわれた常世樹”。


 ひかりは息を呑み、〈暁葉〉を抜く。


「……あなたが、ユグラを縛る“夜の主”なのね」


 風が止まり、森が静まり返る。


『ヒトノ娘ヨ……理ニ触レルナ。

 命ハ止マレバ、苦シマヌ。 ソレガ安ラギ。』


 声は木の奥から、地の底から響いた。

 森そのものが喋っているような、巨大で無機質な声。


「止まることが安らぎ? それは“死”じゃない。

 命は流れてこそ、理に還るのよ!」


 〈暁葉〉の刃が淡く光る。

 火ではない。――祈りの灯。


「ユグラ。私はあなたを斬りに来たんじゃない。

 名を、取り戻しに来たの」


 黒い幹が軋み、根が地を這う。

 そのたびに、木霊たちの声が溢れ出す。


『ナマエ……ナイ……ト……クルシイ……』


「……わかってる。だから、流れを戻す」


 ひかりは刀を構え、気を巡らせた。

 火の理と木の理を重ね合わせる。

 祈りの火を、導きの光へ――。


「――《火祈》・《木綴り》!」


 刃から走った光が地に溶け、根の間を縫う。

 黒い靄が揺らぎ、幹の奥で何かが呻く。


『……ナ……マ……エ……』


 声は確かに“求めている”。

 ひかりは腰の袋から〈樹〉の木片を取り出し、刀の鍔に当てた。


「思い出して――あなたの“名”を」


 木の光が刃を伝い、黒い根の表面を走る。

 幹が悲鳴を上げるように震え、空気が弾けた。


『ア……ユ……グ……ラ……?』


 その瞬間、ひかりの胸の奥で何かが共鳴した。

 木と火の理が円となり、命の流れが一筋、森に戻っていく。


「――そう。あなたは、ユグラ」


 名を呼ぶたびに、黒が剥がれ、白い樹の核が露わになる。

 けれど、その奥からもう一つの声が響いた。


『ヤメロ……名ハ、苦ノ印……名ハ、縛リ……』


 低く、冷たい声。

 まるで、ユグラの影が別の意志を持ったようだった。


 空気が凍り、光が飲み込まれていく。

 黒い影が再び伸び、ユグラを包み込もうとした。

 ひかりの瞳に、わずかな怒りと祈りが灯る。

 〈暁葉〉を構え、足を前に出した。


「なら――名を取り戻すまで、何度でも“流れ”を呼ぶ!」


 大地が震え、枝が唸りを上げる。

 火と木の理が交わる音が、森全体に鳴り響いた。


 常世樹の森が、再び息を吹き返そうとしていた。

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