第八話 森母の祠
河南国の北、風を呑むように深い森がある。
人々はそこを“木母(こぼ)の森”と呼び、近ごろは誰も近づかなくなっていた。
「夜になると、木々が泣くんだ」
「祠に近づくと、木霊が現れる。斬っても、また立ち上がる」
鍛冶の村を発つ前に聞いた村人の噂が、ひかりの脳裏で響く。
森の入口に立つと、風が止んだ。
枝葉が不自然にざわつき、音を立てずに揺れている。
まるで、見えぬ何かが森を息づかせているようだった。
ひかりは腰袋から〈樹〉の折片を取り出し、指先でなぞる。
木の気が触れ合い、ほのかに温もりが返ってくる。
「……〈樹〉。ここ、あなたが生まれた森に似てるね」
微かな鼓動のような反応が伝わる。
森全体が、その欠片に呼応しているかのようだった。
ひかりは森に足を踏み入れた。
一歩ごとに空気が重くなる。
息を吸うたび、胸の奥に冷たい気が絡みつく。
木の香は青く、けれどどこか湿っている。流れていない水の匂いだ。
『……イタイ……マモリタイ……』
声が聞こえた。風ではない、気の声。
ひかりは刀の柄に手を置き、音の方へ進む。
苔むす根の陰に、ひとつの影が立っていた。
透けるような身体、樹皮のような肌、瞳のない目。
胸の空洞から、黒い気が滲み出している。
「……木霊」
以前にも出会った妖の名を、ひかりは呟いた。
木霊は焦点のない瞳をひかりに向け、呻く。
『タスケ……テ……』
その言葉が終わるより早く、黒い根が地面から伸びて襲いかかった。
「――ッ!」
ひかりは跳び退り、暁葉を抜く。
刃が風を裂き、赤い光が走る。
「――地鎧(ちがい)!」
刀を地に突き立て、気を流す。
大地の理が光となり、波紋のように広がった。
黒い根が動きを止め、木霊の身体が淡く輝く。
やがて光が弾け、木霊は安らかな表情で消えた。
『……アリ……ガ……ト……ゥ……』
ひかりは掌を見つめる。
温もりが消えていく代わりに、冷たい静けさが残った。
「命が……止まってる?」
枯れない木々、死ねない精霊。
それは、“循環”の崩壊。
五行の一角――木の理の流れが狂っている証だった。
「行こう、〈樹〉。森の理の根を確かめに」
ひかりは腰の袋を叩き、森の奥へと進んだ。
樹冠(じゅかん)を縫う光は次第に薄れ、代わりに冷ややかな翳(かげ)が濃くなる。
幹には古い刻み傷。鋼の匂いが微かに混じっていた。
地面には古い炭の粉が溜まり、雨に溶けて黒い筋を作っている。
やがて、風が一度だけ鳴った。
音のない森に、細い鈴の音のような響き。
ひかりは足を止め、耳を澄ませる。
『――戻レ――』
少年の声。続いて、老いた女の囁き。
さらに、泣き止まぬ幼子の鼻をすする音。
いずれも“森に還り切れない”気配だ。
ひかりは柄に置いた手を外し、掌を胸に当てる。
火の呼吸を浅く、木の呼吸を深く。
息を“受ける”側に切り替える。
「……大丈夫。私は傷付けに来たんじゃない。
流れを、戻しに来たの」
足元の蔓が緩やかにほどけ、道が開いた。
しばらく進むと、視界の先に古びた祠(ほこら)が見えた。
折れた鳥居、苔(こけ)に覆われた社(やしろ)。
そこに渦巻く気は、怒りと悲しみが混じったような濃さだった。
祠の前の地面は、無数の小さな円形の窪み――誰かが膝をつき、祈った痕(あと)のように見えた。
ひかりは膝をつき、掌を地に当てた。
気を流す――その瞬間、地が唸る。
足元が裂け、黒い根が飛び出した。
幹の奥で、硬い何かが噛み合うような音。
『人ノ子ヨ……ナゼ火ヲ持ツ』
祠の奥から、木の枝を纏う女の影が姿を現す。
髪は蔦のように乱れ、肌は樹皮のようにひび割れていた。
翠の瞳だけが、理の光を宿している。
「……山姥(やまんば)!」
『森ヲ焦ガシ、命ヲ奪ウ者。
ナゼ再ビ理ニ触レル』
「燃やしに来たんじゃない。理を、学びに来たの」
山姥の顔がゆがむ。
瞳の奥で、古い火の記憶が瞬く。
『学ブ……? 人ノ子ガ理ヲ語ルカ。
オノレラハ木ヲ斬リ、地ヲ枯ラシタ。
我ハ守ッタ。命ヲ守ルタメニ』
黒い根が地面を這い、ひかりの足を絡め取る。
棘が皮膚を裂き、血が滲む。
「くっ……!」
ひかりは〈暁葉〉を抜いた。
気を火の理に変質させる。
「――焔斬(えんざん)!」
刀に炎を纏わせ斬撃を放つ。
根を断ち切る――が、すぐに再生する。
『命ハ循環スル。
切ッテモ、戻ル。
森ハ死ナナイ』
「死ねない命……それは、生きているとは言えない!」
ひかりの胸の奥で何かが共鳴した。
――調和を祈る、誰かの想い。
鍛冶場の火、風の男の笑い、〈樹〉のぬくもり。
すべてが一本の糸になって指先に集まる。
「ならば、流れを戻す!」
ひかりは〈暁葉〉を正眼(せいがん)に構え、気を高める。
刃の中で理が震え、炎ではなく柔らかな光が溢れる。
「――火祈(ひのいのり)」
火の理が祈りとなって広がり、森全体を包み込んだ。
焼くためではなく、照らすための火。
怨(おん)の気が光に溶け、木々が静かに息を吹き返す。
葉脈に淡い緑が戻り、土は湿りを取り戻す。
山姥の瞳がわずかに揺れた。
『……祈ル火、カ』
枝の髪がほどけ、樹皮の肌に柔らかな色が戻る。
けれど、ひときわ太い根だけは黒のまま、祠の奥深くへ伸びている。
『オ前ノ火ハ、焦ガサナイ……理ヲ照ラス火。
ダガ、根ハ更ニ奥デ絡ミ、時ヲ喰ラウ。
我モ、留メルコトシカ出来ナカッタ』
「この黒い根……なにを喰っているの?」
山姥は祠の天井を仰いだ。
苔の隙間から白い光が落ち、彼女の頬を撫でる。
『“名”だ。
木ノ理ノ、名。
古クハ“常世樹(とこよぎ)”ト呼バレタ核――
今ハ“ユグラ”ト呼ブ者モイル。
名ガ喰ワレ、名モナク彷徨(さまよ)ウ命ハ、循環カラ弾カレル』
「ユグラ……」
鍛冶場の翁が、夜更けに一度だけ口にした名が胸の奥で鈍く響く。
この森は、核の“名”を奪われ、道を失っている。
だから命は還れず、木霊は立ち続ける。
「名を……返さなきゃ」
ひかりは〈樹〉の欠片を取り出し、黒い根へかざした。
木の気が細く歌い出し、森の葉がそれに追唱する。
火祈の光を細い糸にほどき、黒根の周りに巻き付ける。
「――木綴(きつづ)り」
火の祈りで照らし、木の糸で縫い、土の脈で据える。
ひかりの中で、五行が小さな輪を作りはじめる。
黒い根が「ギチッ」と軋む。
絡み合った名のほつれが一部ほどけ、滞っていた気がわずかに流れ出す。
祠の注連縄(しめなわ)が乾いた音を立て、白紙が揺れた。
山姥が目を細め、ひかりの手元を注視する。
その瞳はもはや敵意を帯びていない。
『ソノ糸……火デハナク、光。
“光ノ理”ヲ紡イデイル』
ひかりの呼吸が浅くなり、額に汗が滲む。
糸は細い。無理に引けば切れる。
だが、流れが蘇る度、森のどこかで小さく花が開く音がした。
やがて、山姥が掌を差し出す。
蔦の指がほどけ、ひかりの糸をそっと支える。
『我ガ手モ貸ソウ。
守ルコトシカ知ラナカッタ掌デ、今ハ“返ス”』
二人の掌から伸びた光と木の糸がねじれ合い、ゆっくり黒根を包む。
祠の奥で鈍い塊が鳴り、長く硬い息を吐いた。
どこからか、泣き止んだ子の寝息が聞こえ、老女の祈りが小さく解ける。
森が、息をする。
黒は完全には消えない。
だが、暴れていた棘は収まり、根は“留まり”から“廻(めぐ)り”へと歩を戻しかけていた。
光が緩むと、ひかりは肩で息をした。
山姥は彼女を支え、祠の縁に腰をおろさせる。
『未ダ、森ノ深部――“心(しん)”ニ黒ガ残ル。
ユグラノ名ハ、半分奪ワレタママ。
名ナキ者ガ名ヲ食ム、夜ノ主(あるじ)がイル』
「夜の主……」
森の入口で耳にした、夜泣きの噂。
あれは恐れから生まれた作り話ではなく、名を喰う“理の歪み”のことだ。
山姥は、祠の根元から一本の細枝を折り、翠(みどり)に光る枝葉をひかりへ渡す。
折った瞬間、木が痛む気配はない。むしろ、嬉しげに葉が震えた。
『コレハ“木母(こぼ)”ノ徽(しるし)。
森ノ子等ガオ前ヲ“客(まれびと)”ト認メル印。
名ヲ持タヌ黒ニ呑マレヌヨウ、道ヲ示ス』
ひかりはそっと受け取り、小袋の〈樹〉の欠片と触れ合わせる。
二つは微かな音を立て、同じ色に脈打った。
「……〈樹〉。あなたが繋いでくれたんだね」
風が吹き、森がざわめく。
『森ハ見テオル……理ヲ学ブ娘ヨ。
オ前ノ火ハ、導ク火。
木ハ受ケ、育ツ。
光ハ名ヲ呼ビ、名ハ道トナル』
山姥の輪郭は、次第に光へとほどけていく。
怒りが薄れ、守る意志だけが残る。
最後に、彼女は森の奥――夜よりなお深い暗(やみ)へと視線を投げた。
『心(しん)へ向カエ。
常世樹ノ魔女(まじょ)――ユグラハ、名ノ欠片ヲ求メテ泣イテイル』
ひかりは立ち上がり、祠に一礼する。
〈暁葉〉を鞘に納めると、刃は静かにひと呼吸した。
火と木の理が、ひとつの流れとなって彼女の中を巡る。
歩み出す足取りはもう、“理を学ぶ旅人”ではない。
――理を導く者、“光の理”を織る少女だった。
森の深部へ。
そこは昼でも薄闇が満ち、土は柔らかく、音は吸い込まれる。
踏みしめるたび、目に見えない輪が足首に絡まり、過去と現在の境が曖昧になる。
ひかりは翠の枝を腰帯に挟み、〈樹〉の欠片を指先でさする。
古い巨木が現れた。空へ伸びる幹は稲妻のように裂け、その裂け目から黒い樹液が滴る。
根は川のように広がり、ところどころに白い骨のような石が嵌(は)まっている。
(違う――石じゃない。名だ。削られ、乾いた“名前の欠片”だ)
胸が強く打つ。
ひかりは〈暁葉〉を抜かない。刃は祈りにこそ応える。
代わりに、息を整え、両の掌を根へ当てる。
「……帰ろう。名の場所へ」
火祈を最小の灯にし、木綴を最細の糸にする。
土脈を指先で辿り、金の理で余計な縁(えにし)を一度だけ断つ。
水の理を意識して、冷えた痛みを洗い流す。
五行が、円になる。
円はほどけ、詩になる。
詩は名を呼び、名は道を描く。
黒い樹液の流れが、わずかに澄む。
根の奥から、眠る子のような呼吸が返ってくる。
――ユグラ。
まだ遠い。だが、確かに呼べた。
ひかりは目を開け、森の奥へ歩を進める。
その瞬間、どこかで風が笑い、葉が微かに拍手をした。
鋼の匂いは薄れ、代わりに若葉の匂いが濃くなる。
腰の〈暁葉〉が、静かに揺れた。
刃の中で、橙と緑が一度だけ交差し、淡い光を残す。
夜になると木々が泣く森。
だが今は、泣き声の向こうに、歌の前ぶれがある。
ひかりは振り返らない。
歩幅を半歩だけ広げる。
足下で、根が道を作った。
――理は道を示し、気はそれを歩む。
名は灯となり、灯は闇をほどく。
少女は、常世樹の心へ向かった。
失われた名を、光で縫い直すために。
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