第2章:最初の代償

朝が来た。


 蓮は、目を開けた瞬間に気づいた。昨夜のことは、夢ではなかったのだと。


 口の中は相変わらず無感覚だった。唾を飲み込んでも、何も感じない。まるで、口の中が空洞になったかのように。


 蓮は起き上がり、キッチンへと向かった。冷蔵庫を開け、牛乳を取り出す。いつものように、コップに注いで一口飲む。


 何も感じない。


 冷たさはわかる。液体が喉を通る感覚もある。しかし、味がしない。牛乳の甘みも、まろやかさも、何もかもが消えていた。


「……本当に、消えたんだな」


 蓮は呟き、コップを置いた。


 これが代償なのか。あのバスに乗った対価として、味覚を失った。馬鹿げた話だと思う。しかし、現実だった。


 蓮は鏡の前に立ち、自分の顔を見た。変わらない。外見は何も変わっていない。ただ、何かが欠けている。それは確かだった。


 味覚を失うことが、どれほどのことなのか。


 蓮は、まだ実感していなかった。


---


 その日、蓮は久しぶりに外出した。


 休職してから、外に出る機会が減っていた。コンビニと自宅を往復するだけの日々。人と話すこともなく、ただ時間を消費するだけ。


 しかし、今日は違った。


 スーパーマーケットに向かった。理由は単純だった。味覚を失ったことを、確かめたかった。


 店内は、いつものように賑わっていた。カートを押す主婦たち。買い物リストを見つめる老人。子供を連れた若い夫婦。みんな、当たり前のように食材を選んでいる。


 蓮は、総菜コーナーに立った。


 唐揚げ、コロッケ、焼き鳥、サラダ。どれも美味しそうに見える。しかし、蓮の心は何も感じなかった。


 試しに、一つ買ってみた。唐揚げ弁当。ひなたが好きだったものだ。


 駐車場のベンチに座り、弁当を開ける。湯気が立ち上る。見た目は美味しそうだ。


 一口、食べた。


 何も感じない。


 肉の食感はわかる。衣のサクサク感もある。しかし、味がしない。醤油の塩辛さも、肉の旨味も、何もかもが消えていた。


 蓮は箸を置いた。


「……ひなたは、これが好きだったんだよな」


 呟いた声が、空しく響く。


 味覚がなくなって、初めてわかった。食べるということが、どれほど幸せなことだったのか。ひなたと一緒に食卓を囲んだ日々が、どれほど大切だったのか。


 蓮は、弁当を閉じた。


 食べる意味がない。どうせ何も感じないのだから。


---


 その夜、蓮はまた、あのバス停に向かっていた。


 自分でも不思議だった。味覚を失ったというのに、またバスに乗りたいと思っている。いや、むしろ、だからこそ乗りたいのかもしれない。


 もう失うものなんて、ない。


 そう思っていた。


 バス停は、昨夜と同じ場所にあった。『後悔行き』の標識が、街灯に照らされている。


 蓮は、ベンチに座った。


 どれくらい待っただろうか。時間の感覚が曖昧になっていた。しかし、やがて、あの音が聞こえてきた。


 低く重いエンジン音。


 バスが、暗闇の中から現れた。深い青色の車体。曇った窓ガラス。そして、顔の見えない運転手。


 扉が開く。


 蓮は、迷わず乗り込んだ。


---


 バスの中は、昨夜と同じだった。


 古びた座席。曇った窓。そして、静寂。


 蓮は同じ席に座り、運転手を見た。運転手は、相変わらず何も言わない。ただ、ハンドルを握り、バスを走らせるだけ。


 窓の外の景色が、また歪み始める。


 今度は、どこへ連れて行かれるのだろうか。蓮は考えた。あの日の続きだろうか。それとも、別の「後悔」を見せられるのだろうか。


 バスは、やがて止まった。


 扉が開く。


 蓮は外を見た。そこは、見覚えのある場所だった。


 実家だ。


 蓮とひなたが育った、あの家。


---


 蓮は、バスを降りた。


 玄関の前に立つ。ドアは少し開いていて、中から光が漏れている。


 蓮は、そっと中に入った。


 リビングには、両親がいた。そして、ひなたも。


 あの日だ、と蓮は気づいた。


 ひなたが事故に遭う、三日前。蓮が実家に帰省した日。


---


 「お兄ちゃん、久しぶり!」


 ひなたが、笑顔で蓮に駆け寄ってきた。しかし、その手は蓮を通り抜ける。


 やはり、触れられない。


 蓮は、ただ見ているしかなかった。


 過去の自分が、ソファに座っている。疲れた顔をして、スマホを見つめている。


 「蓮、最近仕事忙しいんだって?」


 父が尋ねた。


 「うん、まあ……生徒指導とか、色々あって」


 過去の蓮が、曖昧に答える。


 「無理しないでね、お兄ちゃん」


 ひなたが、心配そうに言った。


 「大丈夫だよ。それより、ひなたこそ元気そうだな」


 「うん!実はね、お兄ちゃんに相談したいことがあるんだ」


 ひなたが、嬉しそうに言った。


 蓮の心臓が、跳ねた。


 これだ。これが、あの「大事な話」につながるのか。


 しかし、過去の蓮は、スマホから目を離さずに言った。


 「相談?また今度聞くよ。今日は疲れてるから、ちょっと休ませて」


 ひなたの顔が、一瞬曇った。


 「……うん、わかった。また今度ね」


 ひなたは、寂しそうに笑った。


---


 蓮は、その場に立ち尽くしていた。


 思い出した。


 この日、ひなたは何か話したがっていた。しかし、蓮は疲れていて、まともに話を聞かなかった。「また今度」と言って、部屋に引きこもってしまった。


 それから三日後、ひなたは事故に遭った。


 「大事な話」を聞くことは、二度となかった。


 「ひなた……」


 蓮は声を出した。しかし、届かない。


 過去は変えられない。ただ見ることしかできない。それがこのバスのルールだ。


 ひなたは、リビングを出て、自分の部屋に向かった。蓮は、後を追った。


---


 ひなたの部屋は、いつも通り整理されていた。


 本棚には参考書が並び、机の上にはノートパソコンが置かれている。ひなたは、椅子に座り、引き出しから何かを取り出した。


 手帳だった。


 ひなたは、そのページを開き、何かを書き始めた。蓮は、その後ろから覗き込もうとした。しかし、文字がぼやけて見えない。まるで、意図的に隠されているかのように。


 ひなたは、書き終えると、手帳を引き出しに戻した。そして、窓の外を見つめた。


 「……お兄ちゃん、ちゃんと聞いてくれるかな」


 ひなたが、呟いた。


 その声には、不安と期待が混じっていた。


 蓮は、胸が締め付けられるような思いだった。


 ひなたは、何を伝えたかったのだろうか。何を相談したかったのだろうか。


---


 その時、景色が揺らいだ。


 蓮は、またバスの中に戻っていた。


 荒い息を繰り返す。全身が汗で濡れている。


 運転手が、ゆっくりと振り返った。相変わらず顔は見えない。しかし、何かを語りかけているような気配がある。


 「……もっと見せてくれ」


 蓮は言った。


 「ひなたが何を話したかったのか、知りたいんだ」


 運転手は、何も答えない。ただ、前を向き、バスを走らせるだけ。


 やがて、バスは元のバス停に戻った。扉が開く。


 蓮は、ふらふらと降りた。


 振り返ると、バスはまた消えていた。


---


 蓮は、アパートに戻った。


 部屋に入り、鏡を見た。


 そして、気づいた。


 何かが、消えている。


 蓮は必死に思い出そうとした。しかし、思い出せない。何か、どうでもいいような記憶が、きれいに消えていた。


 小学生の頃の遠足の記憶だろうか。それとも、昔見た映画の内容だろうか。わからない。ただ、何かが欠けていることだけは確かだった。


 これが、二度目の代償。


 記憶の一部。


 蓮は、ソファに座り込んだ。


 味覚に続いて、記憶も失い始めている。このまま乗り続ければ、いずれ自分は何もかもを失ってしまうのかもしれない。


 それでも、蓮は思った。


 もう一度、乗りたい。


 ひなたの真実を知るまで、やめられない。


---


 その夜、蓮は夢を見た。


 ひなたが、笑顔でこちらを見ている夢。


 「お兄ちゃん、どうして来てくれなかったの?」


 ひなたが尋ねる。


 「ごめん、ひなた。忙しくて……」


 蓮は答える。


 「忙しいのはわかってる。でもね、私、本当に大事な話があったの」


 ひなたの笑顔が、少しずつ崩れていく。


 「もう遅いけどね」


 そう言って、ひなたは消えた。


 蓮は、暗闇の中で一人、立ち尽くしていた。


---


 目が覚めると、朝だった。


 蓮は、ベッドの上で天井を見つめた。


 また、夜が来る。


 また、あのバスが来る。


 そして、蓮はまた乗るだろう。


 何を失っても、構わない。


 ひなたの真実を知るまで、蓮は決して諦めない。

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