後悔バス
月城 リョウ
後悔バス -後悔行きのバス-
第1章:深夜のバス停
夜の静けさが、耳鳴りのように響く。
橘蓮は、いつものようにコンビニのレジ袋を提げて、アパートへの帰り道を歩いていた。深夜零時を回った住宅街に、人の気配はない。街灯の光が規則正しく道を照らし、その間の闇が、まるで蓮を飲み込もうとするかのように迫ってくる。
三年前から、蓮の夜はこうだった。
眠れない。眠ろうとすると、あの日の記憶が蘇る。妹からかかってきた電話の着信音。忙しくて出られなかった自分。「また今度ね」と返信したメッセージ。そして数時間後に届いた、警察からの連絡。
ひなたは、もういない。
蓮は立ち止まり、夜空を見上げた。星なんて見えない。都会の空は、いつだってこうだ。何も映さない、ただの黒い幕。
「……馬鹿だな、俺」
誰に言うでもなく、蓮は呟いた。
三年経っても、何も変わらない。教師の仕事は休職したまま。友人との連絡も途絶えがちになった。生きているのか、ただ時間を消費しているだけなのか、もう自分でもわからない。
ただ一つ確かなのは、後悔だけが、日に日に重くなっていくということだった。
---
その時、蓮の視界に、見慣れない光景が飛び込んできた。
バス停だった。
いや、正確には、今まで見たこともないバス停が、そこにあった。蓮は毎日この道を通っている。こんな場所にバス停なんてなかったはずだ。
それは古びた木製のベンチと、錆びついた標識だけの、簡素な造りだった。標識には、手書きのような文字でこう書かれている。
『後悔行き』
蓮は思わず足を止めた。後悔行き?何だそれは。誰かのいたずらだろうか。それとも、何かのアート作品か。
だが、その文字を見た瞬間、蓮の胸の奥が、ずきりと痛んだ。
後悔。
その言葉が、まるで自分のためにそこに書かれているように思えた。
「……馬鹿らしい」
蓮は首を振り、その場を立ち去ろうとした。しかし、足が動かない。まるで何かに引き寄せられるように、体が勝手にバス停へと向かっていく。
気づけば、蓮はベンチの前に立っていた。
そして、遠くから、エンジン音が聞こえてきた。
---
それは、深夜の静寂を切り裂くような、低く重い音だった。
蓮が振り返ると、一台のバスがゆっくりとこちらに近づいてくるのが見えた。古い型のバスで、車体は深い青色。窓は曇っていて、中の様子は見えない。ヘッドライトだけが、暗闇の中で鈍く光っている。
バスは、バス停の前でぴたりと止まった。
扉が、音もなく開く。
蓮は息を呑んだ。運転席に座っているのは、人の形をした何かだった。顔は深い影に覆われていて、表情が見えない。ただ、その影の奥から、何かがこちらを見ているような気配だけが伝わってくる。
「……誰だ、あんた」
蓮は声を絞り出した。しかし、運転手は何も答えない。ただ、ゆっくりと手を上げ、バスの奥を指し示した。
乗れ、と言っているのだろうか。
「いや、俺は乗らない。間違いだ」
蓮は一歩後ずさった。しかし、足が震えている。恐怖ではない。何か別の感情が、胸の奥から湧き上がってくる。
それは、切望だった。
乗りたい、と。
この不気味なバスに乗れば、何かが変わるかもしれない。後悔の重さから、少しでも解放されるかもしれない。ひなたに、もう一度会えるかもしれない。
馬鹿げている、と頭ではわかっていた。こんなバスに乗ったところで、何も変わるはずがない。それどころか、危険かもしれない。
だが、蓮の足は、勝手にバスのステップを踏んでいた。
---
バスの中は、不思議なほど静かだった。
エンジン音も、外の音も、全てが遮断されたかのように、何も聞こえない。座席は古びた布張りで、ところどころ破れている。窓ガラスは曇っていて、外の景色はぼんやりとしか見えない。
乗客は、蓮だけだった。
蓮は中ほどの席に座り、運転席を見た。運転手は相変わらず顔が見えない。ただ黙って、ハンドルを握っている。
「……どこへ行くんだ、このバスは」
蓮は尋ねた。しかし、返事はない。
その代わり、バスがゆっくりと動き出した。
窓の外の景色が流れ始める。しかし、それは見慣れた街の風景ではなかった。建物も、街灯も、全てが歪んで見える。まるで、現実と夢の境界を走っているかのように。
蓮は、自分が何をしているのか、もうわからなくなっていた。
どれくらい走っただろうか。時間の感覚が麻痺していた。バスは、いつの間にか、ある場所で止まっていた。
扉が開く。
蓮は立ち上がり、外を見た。そこは、見覚えのある場所だった。
駅前の交差点。
三年前、ひなたが事故に遭った、あの場所。
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蓮の心臓が、激しく鳴り始めた。
「……なんで、ここに」
バスを降りると、そこは確かに三年前のあの日だった。信号の色、店の看板、すれ違う人々の服装。全てが、あの日のままだ。
そして、蓮は見た。
交差点の向こう側に立つ、見覚えのある姿を。
ひなただった。
長い髪を風になびかせ、スマホを見つめている妹。蓮は思わず駆け出そうとした。しかし、足が動かない。いや、動いているのに、前に進まない。まるで、透明な壁に阻まれているかのように。
「ひなた!」
叫んだ。しかし、声が届かない。ひなたは蓮の存在に気づかない。
そして、その瞬間が来た。
信号が変わり、ひなたが横断歩道を渡り始める。そこに、スピードを出した車が突っ込んできた。
蓮は叫んだ。しかし、声は届かない。ひなたに触れようとした。しかし、手は空を切る。
ブレーキ音。
鈍い衝撃音。
倒れるひなた。
蓮は、ただそれを見ているしかなかった。
---
気づけば、蓮はバスの中に戻っていた。
座席に座り、荒い息を繰り返している。全身が汗でびっしょりだった。
「……なんだ、今のは」
夢だったのだろうか。いや、あれは夢なんかじゃない。確かに、あの日を見た。ひなたが事故に遭う瞬間を、もう一度、目の当たりにした。
運転手が、ゆっくりと蓮の方を振り返った。相変わらず顔は見えない。ただ、何かを語りかけているような気配だけが伝わってくる。
バスは再び動き出し、元の場所に戻っていった。
そして、あのバス停の前で止まった。扉が開く。
蓮は、ふらふらとバスを降りた。
振り返ると、バスはもうそこにはなかった。まるで最初からなかったかのように、跡形もなく消えていた。
バス停の標識だけが、そこに残っている。
『後悔行き』
蓮は、自分の手を見た。震えている。そして、口の中に違和感を覚えた。
何か、おかしい。
蓮はコンビニの袋からペットボトルを取り出し、一口飲んだ。しかし、何も感じない。水の冷たさも、味も、何もわからない。
まるで、舌が死んだかのように。
「……なんだ、これ」
蓮は呟いた。そして、ようやく気づいた。
代償だ、と。
後悔を見る代わりに、何かを失ったのだと。
---
その夜、蓮は一睡もできなかった。
アパートの部屋で、ベッドに横たわりながら、ただ天井を見つめていた。味覚が戻らない。何を食べても、何を飲んでも、全てが無味だ。
それでも、蓮の心は、あのバスのことを考えていた。
もう一度、乗りたい。
ひなたに会いたい。あの日、何が起きたのか知りたい。妹が「大事な話」として伝えようとしていたことを、知りたい。
代償があるとしても、構わない。
蓮は、既に決めていた。
また、あのバスに乗ると。
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