指輪の不思議
Y市郊外に大規模な住宅団地N地区がある。中国山地から流れ出す日野川水系一級河川の畔、かつて縄文から弥生時代にかけて大規模な集落が形成されており、住居跡や倉庫、墓地など先人の様々な営みの痕跡が遺跡として発掘されていた。昭和四十年代の人口急増期に、その遺跡を取り囲むように、山をならし谷を埋め造成された団地である。そこには四階建ての集合住宅が並ぶのブロックと一戸建てのブロック、そして遺跡が混在しており、Y市内外から続々と人が集まってきた。昭和の終わり頃にはN地区だけで三千人もの人々が生活する一つの町を形成していた。
団地には、そこで生活する人々の為に、学校や病院が隣接し、スーパーや郵便局、公民館、グラウンドまで整備された。さらに区画ごとには集会所と児童公園が計画的に整備されて、そこの住人に供されている。――五月の終わり、その児童公園のひとつに、幼い少女が遊んでいた。少女は五歳、名を前嶋さくらと言った。
彼女の家は公園を見下ろすクリーム色の集合住宅の四階である。この時期日本中どこに行っても同じような鉄筋の集合住宅が建設されており、その画一感は面白みがなかったが、安めに設定された家賃が魅力で、ほぼすべての部屋が埋まっているのだった。さくらは同じ団地内の保育園に通っているが、ここは親の迎えを待つタイプの保育園ではなく、夕方になると園の先生が園児達を連れて団地の自宅前まで送り届けるシステムだった。さくらも先生に送られて一度帰宅したのだが、すぐに家を出て、前の公園で遊び始めたのだった。……このところ両親は口論ばかりしていて、怖くなったさくらが泣いても、かえってうるさいと怒鳴られたりするのだ。父は先週から家に帰ってこなくなった。母に尋ねても何も教えてはくれない。
その母の帰りは今日も遅く、一人で留守番するのは嫌だった。公園であれば他に遊んでいる子も多く、寂しくはない。さくらは人みしりが強く、一人遊びの方が好きだったのだが、雨が降らない限り、日没ぎりぎりまではここで過ごすのが日課となっていた。日の長いこの時期は、うまくすれば遊んでいるさくらに帰ってきた母が声をかけてくれるのだ。父がいなくなってから、母が少しだけ優しくなったように感じていた。
この日、公園で遊んでいるのは大きな子達ばかりで、同じ年頃の子の姿はなく、さくらは一人で砂場遊びしているのだった。家から持ち出したプラスチック製の小さなバケツとスコップで、砂山を作ってはトンネルを掘り抜く。砂を少しばかり湿らせておくのがコツだった。砂だらけになると母に叱られるのだが、夢中になってその作業に集中するさくら。――その時声がした。
「ひとりで遊んでるの?」
はじめは、誰が誰に声をかけているのかわからず、砂のトンネル作りに夢中になっていたさくらだったが、長いレモン色のワンピースを着た大人の女の人がすぐ隣にしゃがみ込んできたので、自分がこの人に声をかけられたのだと理解した。肩にかかる黒髪から綺麗な横顔が見えた。ただどう返事していいのかわからない。初めての人は苦手なさくらであった。
「……さくらちゃん。」
いきなり自分の名前を呼ばれ、驚いて彼女を見ると、彼女はこちらを見て優しく笑っていた。
「お姉さん、私のこと知ってるの?」
女の人はそれには答えず、さくらの服につけられた名札を指さした。さくらは保育園のスモックのまま遊んでいたのだ。ああそうなのかと納得したが、さくらはその女の人を知っているような気がした。
「トンネルを作っているのね。私も一緒に作っていい?」
大人も砂場で遊ぶんだ、などと保育園児は思わない。
「いいよ」
それで十分だった。二人は夢中になって砂のトンネルを作る。さくらが砂山を作ると、お姉さんがトンネルを掘る。最初はすぐ崩れてお姉さんのすてきなワンピースが砂だらけになる。さすがにさくらも気になって、聞いてみる。
「お姉さん、服が汚れるよ。お母さんに怒られない?」
「大丈夫よ。お母さんいないもの」
右腕を砂まみれにしてお姉さんは笑う。そういう問題ではないだろうと、さすがに保育園児でも思ったが、さくらもとても楽しく、お姉さんとはいつまでも遊んでいたかった。
気がつくと周囲は黄昏色に染まりつつある。今度はお姉さんの方から声をかけてきた。
「さくらちゃん、そろそろ暗くなるわよ。お母さんが心配するでしょう?」
さくらもあたりを見渡す。砂遊びは楽しく、まだまだ続けたかったが、確かにお母さんが帰ってくる時間のようだった。
「お姉さん、明日また遊べる?」さくらは無邪気に訊いた。
「そうね、また明日も来ようかな」
「じゃあ約束だよ」
さくらがそう言ったとき、公園の入り口で母がさくらを呼ぶ声がした。嬉しくなったさくらは、母にそのお姉さんを紹介しようと母の元に駆け寄る。そして母の手を握り振り返ると、
「あれ、お姉さんいないよ?」
どこへ行ったのか、砂場に女の人の姿はなかった。さくらは驚いて母の元から再び砂場に駆け戻った。先程まで彼女と作った砂のトンネルはそのままあった。そこに何か光るものが見える。拾い上げると銀色の指輪だった。小さな赤い宝石がいくつも散りばめられて、西の山に日が沈んだばかりの残光に、わずかに燦めいた。
「お姉さんが落としていったのかな……?」
砂遊びの時、その左手にこの指輪が光っていたのを見たような気がした。まあ、明日も遊ぶ約束したし、その時返せばいいんだわと思ったさくらは、その指輪をポケットにしまう。
翌日は朝から雨だった、雨は保育園から帰っても止まず、さくらにはよくわからなかったが、テレビから「梅雨入り」という言葉がたびたび耳に入ってきた。団地四階の家からは昨日遊んだ公園が見下ろせたが、もちろんお姉さんの姿はなく、ただ砂場が雨に煙っていた。さくらはお姉さんの指輪を自分の宝箱に大切にしまい込んだ。
その年は雨の多い梅雨で、特に末期の集中豪雨で各地に大きな被害が出たが、保育園児のさくらには特に関わりない。しかし雨の中、広島に住む祖父母が車でさくらを迎えに来た。母が、さくらは一ヶ月ほど祖父母のところで過ごすのだという。おじいちゃんおばあちゃんは優しくて大好きだが、何か自分の知らないところで大きく変わっていくようで、さくらは悲しくなる。七月半ばにようやく梅雨が明けたが、暑い夏がはじまっても、母は迎えに来なかった。結局、夏中を広島の祖父母の家で過ごすことになる。夏の終わりにようやくY市に戻ったさくらだったが、秋が始まっても公園にあのお姉さんが姿を見せて、さくらと遊んでくれることはなかった。
その後、幼いさくらは宝箱の中の指輪を見るたびに、たった一度ではあったが楽しく遊んでくれたお姉さんのことを思い出した。ただ小学校に入学すると、さくらの頭の中は保育園とは比べものにならないくらい刺激的な新しいことに満たされるようになり。いつしかお姉さんのことを思い出す回数も減っていった。しかしさくらは彼女にもう一度出会うことになる。
さくらは団地に隣接する小学校の四年生になっていた。やはりよく晴れた五月の午後、 団地の公園を横切ろうとすると、 砂場の近くにあのお姉さんが立っているのが見えた。一緒に砂場で遊んでから五年の歳月が流れていたが、すぐにお姉さんだとわかった。
「さくらちゃん、大きくなったわね」
そう言って微笑む彼女は、服装も含め、さくらの記憶にあるお姉さんと全く変わりがない。新緑から透けてくる木漏れ日が、レモン色のワンピースに細かい濃淡の模様をつけて、肩にかかった黒髪が時々風にゆれていた。
「こめんね、一緒に遊ぼうって約束したのに守れなくって」
これについてさくらの記憶はやや曖昧になっていたが、確か雨が降って遊べなかったように思う。それよりもずっと気にしてきたことが口に出た。
「お姉さん、指輪、落とさなかった?――遊んだ日に砂場で見つけたんだけど」
確か自分の勉強机の宝箱の中にあった。すぐ取りに行かなくっちゃ。そう思うさくらだったが、お姉さんはにっこり笑ってこう言った。
「さくらちゃんが持っててくれたんだ、ありがとうね。あの指輪、大切なものだったけど、私はもういいの。さくらちゃんにもらってほしいな」
お姉さんはさくらの左手をとって優しくなでる。
「まだ小さいけど、すぐに大きくなって、あの指輪もぴったりになるわ。私が保証する」
保育園の時ならともかく、さすがに四年生にもなれば、あの指輪が子どものおもちゃなどではなく、大人が身につける本物だと言うことくらい理解できた。赤い石もルビーだと思う。それに気づいて母に相談しようと思ったときには、すでに二年以上経っていて、今更言えば厳しく怒られるような気がして、話せていないさくらだった。
「本当に私にくれるの?」
「さくらちゃんに持っててほしい。……お願い」
実はさくらはあの指輪が大好きだった。母に秘密にしているという後ろめたさがあったが、プラスチックの宝箱の中、ガラス玉やメッキのアクセサリー、キーホルダーに埋もれるようにこの五年間隠されてきた指輪。時々宝箱を開けて指輪を取り出し指を差し込んでみる。まだまだゆるくて、どの指にはめてもくるりくるりと回る指輪。それでも母に隠れてこっそりはめてみたくなる五年間だった。ただこれまでは自分のものだという意識はなく、いつかお姉さんに返すのだと考えてきた。しかしそれを自分にくれるという。
「……私なんかがもらうわけにはいけないわ」
「どうして? その指輪気に入らないの?」
「ううん、そんなことない、大好き」
「それならいいじゃない。――あなたの指輪なんだから」
お姉さんは何を言ってるんだろう、さくらがそう思ったとき、四階のベランダから母が声をかけてきた。今日母は仕事が休みで、 洗濯物を干しにベランダに出てきたようだった。ここ数年、母はすっかり明るくなり、さくらは家が楽しくなった。父がいなくなった頃の事はあまり思い出さない。さくらが大きく手を振ると母も手を振り返す。少し遠いが、母がにこにこしているのがわかった。 隣でお姉さんも母を見上げている。少し笑っているようだ。
「さくらちゃん、お母さんを大切にしてね」
そう言われて、さくらはもう一度お姉さんを見る。なんとなく、それが別れの挨拶だとわかった。さくらの返事を待たず、お姉さんはさくらに背を向けて公園から出て行く。木陰を出るとレモン色のワンピース全体が五月の光に照らされる。なんだか少し透き通ってさえ見えた。
さくらは小学校、中学校を卒業し、高校生になる。その頃になると彼女は鏡の中に、あの五月に別れたお姉さんの姿を見るようになったが、もうそれを不思議に思うことはなかった。あの指輪は古びたおもちゃの宝箱の中に入れられたまま時間が止まっていた。
さくらは高校を卒業すると、専門学校で保育士の資格を取得し二十歳からY市内の保育園に勤めるようになる。人見知りが強く内向的な子だったのにと、母は心配しつつも娘の成長を喜んでくれた。仕事にも慣れたころ、東京の大学を卒業してY市に戻ってきていた小中学校の同級生と再会し、交際するようになる。彼は造り酒屋の跡取り息子だった。さくらが二十三歳の誕生日、二人で祝ったレストランで、彼が小さな灰色のケースを差し出す。指輪であろう事はさくらにもすぐわかった。しかし……
「開けてみて」――彼が促す。
本当に嬉しかった。受け取らない理由はもちろんない。ただ、これを開ければ時間の輪がつながり、自宅の古い宝箱に隠されたあの指輪は消えてしまう。そういう確信があった。あの幼い日のことが思い出され、それが一瞬さくらの手を止めたのだ。しかしそれは一瞬のこと、彼の心に不審が生ずるより早くさくらはケースを開け、そこに長年見慣れた指輪の姿を認める。
彼からのプロポーズを、さくら本人以上に喜んでくれたのは母ではなかったか。これまで飾り気がなく化粧にもこだわらない淡泊な娘を案じていたのが、服だの化粧品だの、なにやかやと買ってくるようになった。母に経済的負担をかけたくないさくらはやめてくれるよう頼んだが、自分が楽しいからだと言われてしまえばどうしようもない。そんな母が買ってくれた服の中に、あのレモン色のワンピースがあった。母に請われてそれに袖を通してみる。姿見に映る姿は、完全にあの時のお姉さんそのものだった。
「この姿で、私は私に会いに来たのね」――そう思った。
近いうちに自分は時間を超えるのだ。さくらは確信していた。なぜなのか、どうやって時間を超えるのか、そんなことはわからない。ただ父がいなくなり、とても悲しく不安だった五歳の少女の寂しい心が、今の幸せなさくらを呼び、自分で自分を慰めようとしたのではないか、なんとなくそう思っていた。
さくらが覚悟していた「その時」はなかなかこなかった。
やがてさくらは結婚し、子ども時代を過ごしたN団地を離れる。子には恵まれなかったが、それなりに充実した日々を優しい夫と過ごした。ただ六十過ぎに夫に先立たれ、めっきり気落ちした彼女は、家屋敷を整理して市内にある高齢者施設に入所し余生を過ごすようになる。
その施設は多くの桜が植えられて、春には見事に咲き誇りY市内でも桜名所のひとつに数えられていた。隣接する中学校からは、元気のいい声が風に乗って聞こえてくる。七十を過ぎるとさくらはあまり動けなくなり、他の入所者との交流も途絶えがちとなっていた。
指には結婚前に夫からもらった指輪をはめて外したことがなかったが、衰弱と共に指は痩せ、指輪がくるりくるりと回るのだった。いつか同じようなことがあった気がするが、よく思い出せない。また、部屋にはもう袖を通すことはないが、若い頃お気に入りだったレモン色のワンピースが掛けられていた。すっかり古びて色もあせていたが、母から送られたものだと記憶する。……そしてもっと大切な意味がこのワンピースにあったような気がするのだが、なんだっただろう。
もうすっかり衰えて動くこともできないさくらは、夫が迎えにきてくれるのを待つばかりなのだが、その前に、まだ自分には、やらなければいけないことがあるような気がするのだ。 桜はすでに散り、新緑の季節を迎えていた。窓の外に燕が飛び交うが、さくらの弱った目ではそれを追うことはできなかった。
その時はすぐそこに迫っている。
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