幽霊温泉
列島全体が火山帯の上にあると言ってもいい日本は、地震や噴火などの災害が多いが、同時に各地に豊かな温泉が湧き、千年以上昔から、権力者から庶民に至るまでその恩恵を受けてきたという歴史もある。Y市には日本海に面した砂浜海岸に湧く「K温泉」という名湯があり、Y市街中心部から至近と言うこともあって、大正時代から近隣の湯治客が集まり賑わっていた。現在でも大小様々な温泉旅館が建ち並び、飲食店や土産物屋、さらには温泉街につきものの風俗店などもあって、Y市の中でも特別な区画として賑わっていた。しかし平成に入ると湯治客が減少傾向に転じ、かつてのような活気を次第に失いつつあった。温泉ブームもひと段落した頃で、はじめは一過性のものかと思われていたが、数年経っても客足は戻ってこない。県外客だけでなく、県内の客まで減り、いくつもの温泉旅館が廃業に追い込まれる事態となっていた。
和田史郎は五十歳、名古屋で中堅の食品加工会社に勤務していた。九月の終わりに出張でY市を訪れた。今までの出張は東日本がほとんどで、西日本、特に山陰は私的な旅行を含め初めてであった。Y市の取引先からはよく知られたK温泉に宿を取ったと連絡があり、温泉好きの和田は少しばかり楽しみにしていた。その取引先との話を無事終え、タクシーでK温泉へ移動したのだが、予想に反して温泉街全体に寂れた雰囲気が漂っており驚かされた。夕暮れ時に着いた宿は『女郎花本館』、この温泉街では古顔で昭和初期開業のようだ。和田は外資本の近代ホテルよりこちらの方が好みだった。予想通り、旅館は古びてはいるががっしりした木造三階建てで、出迎えてくれた女将は、和田とそう変わらぬ年頃だろうか、浅黄色の大島をきっちり着こなした美人である。
「ご予約の和田様ですね。お待ちしておりました」
静かに微笑んで丁寧に挨拶する女将。ほとんど口を動かさないがよく通る声だった。
「お部屋にご案内します。お食事はすぐお持ちしてよろしいですか? それともお風呂を先に?」
「ああ、空腹だ、まず食事をお願いする」
荷物は書類と着替えの入った小さなバッグだけだった。女将自ら案内してくれるようだ。荷物をお持ちしますというのを断り女将の後について行くと、壁に写真と手書きのはがきが何枚か額に入れて飾られている。写真の人物は和田、と言うより日本人の多くが見知っている大作家だった。その視線に気がついたのか、女将が説明してくれる。
「ここは○○先生の常宿で、何年かに一度は冬場にお越しになりました。一ヶ月以上の長逗留されたこともありますの」
なるほど、はがきは作家からのものらしい。達筆すぎて読めないが……。確か十年ばかり前、七十過ぎの彼は、まだ十代の少女と軽井沢で心中して、日本中を騒然とさせたはずだ。文学界にまったく興味のない和田でも、さすがにそのニュースは記憶にあった。
「こちら、弥生の間でございます」
そう言って女将は二階の一室に私を通した。一人で泊まるには十分すぎる広さである。正面は海に向かってガラス戸になっており、まだ明るさを残した空の下日本海が黒っぽく揺れて砂浜に打ち寄せている。 女将は一度下がると、程なく食事を持って上がってきた。海鮮たっぷりの見事な膳である。頼んでおいた地酒も添えてある。料理と酒を楽しんて、しばらく暗くなった海を眺めていた和田は、出張の疲れか眠くなった。
肌寒さにふと目覚めた和田が時計を見ると十時を回っている。すっかり寝過ごしたようだ。食事の膳はとっくに片付けられており布団も敷いてあったが、全く気がつかなかった。 目覚めてみれば酒も醒めて、元来酒好きな和田はもの足らなくなる。 帳場に頼めば何か持って来てくれるだろうが、折角なので夜の温泉街に出てみたくなった。まだ十時過ぎなら開いている店もあるだろう。九月とは言え冷えるかも知れないと上着をはおり、下に降りると帳場には女将がひとり番をしていた。
「これは和田様、お出かけですか?」
「ああ、ちょっとその辺を歩いてくるよ」
「行ってらっしゃいませ。正面はいつでも開いておりますのでごゆっくりどうぞ」
女将の見送りを背に、夜の温泉街へ出た和田だったが、人通りは少なく、通り全体が薄暗いように感じる。実際開いている店が目につかない。
「これが全国に知られたK温泉なのか?そういえば、宿でも他の客の姿を見かけなかったな。ここは予想以上に寂れているのかもしれないぞ……」
そうつぶやいた和田の目に、暖簾と赤提灯が映る。暖簾には「きむらや」と平仮名。開いてる店もあるじゃないかと、和田はすぐに暖簾をくぐる。やはり外は冷えるのか店内に入るとほっとする。――狭いカウンターだけの店で、他の客の姿はない。作りから古びた有様から昭和そのものの雰囲気を残す店で、都会にあれば意図的にこうした意匠にデザインされたと思うところだが、もちろんここはそうではないだろう。
「いらっしゃい」 ――いきなり店の奥から声がして、和田は驚いて声を出すところ だった。
「お客さん、ひとり? さあ、そこ締めて中へ入りないや。今年は秋が早いんか、夜になあと、寒くなるけん」
店の主人は真っ白な髪を短く刈り上げた七十がらみの男で、ガラガラした声で、和田にカウンターの真ん中の席につくよう促した。
「酒は熱いのでええかね。ここにはトップ水雷しかないが。」
「トップ水雷?」
「ここの酒よ。昔、東郷元帥が来なったときにそう名付けなったと聞いとるな」
「東郷元帥って、東郷平八郎?」
「そうよ、わしも若い頃は帝国海軍の少年水兵だったけんな。まあこだわっとるところよ」 そう言って主人は笑う。
七十前後に見えたが、海軍にいたとすればいくら若くても九十は超えていよう。若々しさが気になったが、壁にずらりと並ぶ品書きの札に目が行く。豊富な地物の魚介類であろう。
「これ、どれでも出せるの?」
「出せにゃ札かけとらんが。どれも活きがいいで」と主人。
酒は旨く、主人がさばいてくれた烏賊の刺身が美味で、つい飲み過ぎてしまう。私はもっぱら聞き役で、ひたすら主人の自慢話を聞くのだが、本当でも作り話でもなかなか話し上手な老人だった。包丁は戦時中乗り組んでいた巡洋艦の厨房で仕込まれたという。――やがて主人が思いついたように尋ねてきた。
「時に、お客さん、今何時かね。店の時計はずいぶん前に壊れちまって」
ああ、と和田は腕時計を見る。すでに深夜零時を回っていた。そう告げると、主人は急にあたふたし始める。
「お客さん、悪いがうちは十二時で看板でね。店、閉めんといけんだが」
「わかった、俺も宿に戻ってひと風呂浴びて寝るよ……」
主人の言うままの金額を支払って店を出る。思ったよりはるかに安く、次に来る機会があればと和田が店の方を振り返ると、たった先程まで灯っていた赤提灯はすでに消え、店は闇の中に沈んでいた。
宿の「女郎花本館」まで歩いて数分である。 女将が言ったとおり玄関は開いており、すんなりと中に入ることができた。帳場には小さな照明が一つ点いているだけで、女将はいなかった。相変わらずひと気のない旅館である。と言うより、客もいないが女将以外の従業員を一人も見かけないことに気がつく。これだけの大きな温泉旅館を女将一人で切り回すことなどできるわけがない。和田は少々気味悪さを感じながらも二階の部屋に戻り、着替えやタオルを持って案内板にある大浴場に向かった。
大浴場は一階にある。広い脱衣所には予想通り誰もいない。深夜だからか客そのものがいないからかわからないが、酔いも手伝って気にかけず古びたガラス戸を開けて浴場に入る。そこには直径十メートルを超える大きな円形の湯船があり、その中央の陶製と思われる鬼の像から湯が流れ落ちている。湯気と十分な熱気にほっとする。やはりここは温泉宿だ。ゆっくりと湯につかると疲れた体がほぐれていくのがわかった。かなり広い大浴場は静まりかえって、流れ出る湯の音しか聞こえない。
気持ちのくつろいだ和田は、つい遊び心でザブリと湯に潜ってみる。自分の頭髪が湯の中でゆらゆらする感覚が楽しかった。しかし顔を出すとき、迂闊にも湯が口の中に入り、激しく咳き込んでしまった。そういえばK温泉は塩湯だったと思い出したときはもう遅かった。咳き込んで塩が浸みた目をぬぐい、ようやく落ち着いた和田は、自分の子供っぽさが気恥ずかしく、誰もいないのを知りながらあわてて周囲を見渡した。――ところが
厚く立ち込める湯気の中にいくつもの人影が見えた。そんなはずはないと、目を凝らす。自分は大浴場に一人で入っていたはず。誰か後から来れば、ガラス戸を開ける音で必ず気がつく。しかもこの人数はいつの間に……?みな静かに湯につかっているようだ。その時初めて誰かの声がした。
「いい年をして恥ずかしくないのかね」
声の方を見ると、すぐ近くに一人の老人が湯につかっていた。いや一人ではない。若い娘が寄り添うように一緒に湯につかっている。首筋から丸みを帯びた肩先はまだ幼さを残していた。――ここは混浴だったか、と和田が少々慌てると、その娘の声がした。
「ひとのことは言えませんよ。先生だって、いい年して私みたいな小娘に入れあげてるじゃない」
和田は老人に見覚えがあった。写真を見たばかりだ。彼は十年ほど前、軽井沢で少女と心中したはずだった。
理解を超えた状況に、湯の中で暖かさより寒気を感じるようになった和田だったが、彼の後ろから別の声がした。振り返ると、先程まで飲んでいた店「きむらや」の主人が、やはり湯につかっている。
「……お客さん、ここはあんたのおる場所じゃないけん。すぐに出た方がいい。騒がず、静かに」
主人の声は小さく、つぶやくようだったがはっきりと聞き取れた。和田はもうその理由を聞きただすゆとりもなく、助言に従って静かに湯から出ると、脱衣所に向かう。背中にいくつもの視線を感じたがひたすら無視して、ろくに水気もぬぐわず着替えると自分の部屋に逃げ込んだのだった。
翌朝、目覚めたとき、和田は昨日休んだ部屋と様子が違っているのに気がついた。木造の建物に泊まったはずだが、ここは鉄筋、窓はサッシだ。窓の外、海の眺めだけは変わっていなかった。深夜の大浴場の記憶はある、恐怖のあまり逃げ込んだ部屋を間違えたのか、廊下に出て部屋の名を確認すると「弥生の間」――確かに自分が泊まった部屋だった。そこに通りかかった制服を着た若い従業員がおはようございますと声をかけてきた。
「朝食は下の大広間に用意してございますのでどうぞ」
夕食は部屋に運んでくれたがと思ったが、とにかく朝食のために一階に降りる。
大広間の入り口近くに、ようやく昨日から見慣れたものを発見する。額に入った作家の写真と幾枚かのはがき。昨夜の大浴場で自分に声をかけてきた老人に間違いない。しかし写真は汚れて一部に焦げた痕があった。食器を運んできた男性従業員に尋ねると、丁寧に対応してくれた。
「これは以前本館の方に飾られていたと聞いています」
「本館? 女郎花本館のこと?」
「そうですよ、ここは女郎花別館です。――新館という人もいますが。本館は火事で焼けました。昭和の終わり頃で、私がここに勤めるずいぶん前のことですが。文化財にも指定されるような木造の見事な旅館だったそうです」
自分は本館に泊まったはずだ、和田はそう言おうとしていたが、火事云々の話を聞いて口を閉じた。信じてもらえるわけがない。
「本館は、フロントの横に写真が飾ってございますので、もし興味がおありでしたら、それを見ていただければ」
その従業員に礼を言うと、和田はフロントへ急いだ。早めにチェックアウトしようとする人々で賑わうフロント横の壁面に、確かに写真はあった。白黒だがきれいに撮られた写真が引き延ばして飾ってある。撮影は昭和五十八年とあった。見事な木造三階建ての女郎花本館の前に従業員が並んでいる。その中央でにこやかに微笑む和服の女性に、昨日の夕刻、和田は迎えられたのだった。
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