第10話 一軍初登板は突然に
昼前の室内練習場。
打撃マシンの音と、スパイクの小さな軋みが響く。
智久は汗をぬぐいながら、投球練習を終えた。
今日の相手は北海道ハイヤーズの二軍。
若手が多く、勢いと破壊力が武器のチーム――そんな下馬評だった。
ベンチ裏の壁に背を預けて、静かにグラブの革を鳴らす。
初登板から時間が経っても、智久が一軍に呼ばれることはなかった。
今日も「いつも通り」投げるだけ――そう思っていた、そのとき。
「坂井!」
どこか焦った声色に智久は顔を上げる。慌てた様子の
余裕のない唐川と違い、新宮は腕を組み、にやりと意地の悪い顔をしていた。
智久の心臓がひとつ跳ねる。
「なんですか?」
「......
空気が一瞬、止まった。
練習場の奥で打撃マシンの球が止まり、音がやけに遠く聞こえる。
智久は思わず言葉を失った。
「は、はい?」
「今日の一軍と二軍の試合開始時間は同じだ。今から投げられるのはお前しかいない」
そう言うと、新宮は小さく笑って去っていく。
足音が遠ざかるのを聞きながら、智久は呆然と立ち尽くした。
手の中のグラブが急に重くなる。
指先が汗ばんで、革の感触がねっとりと智久の手にまとわりついた。
一軍。
その言葉の重みが、ようやく胸に沈んできた。
喉の奥が熱い。
息を吸っても、肺の中に空気が入りきらない。
午後二時。
北海道ハイヤーズとの一軍戦が行われる。
初夏の陽射しがグラウンドを包み、芝は深い緑に輝いていた。
ベンチ前では報道陣がカメラを構え、観客席からはざわめきが絶えない。
智久はキャップのつばを深くかぶり、ブルペンの扉を押し開けた。
鼻に芝と土の混ざった匂いが強く流れ込んでくる。
「お、ついに来たか」
今日、智久と組むことになっているキャッチャーの
「緊張してるな?」と笑いながら、ミットを叩く。
智久はかすかに笑い返すしかなかった。
「まぁ、そりゃ……初めてなんで」
「初めては誰でもそうだ。投げればすぐ慣れる。ミットに向かって投げてくれれば俺がなんとかする」
そう言って田岡はマスクを下ろした。
その言葉だけで、胸の中の緊張が少し溶けた。
投球練習を終え、マウンドへ。
スタンドのざわめきが波のように押し寄せる。
視界の端で、ハイヤーズのユニフォームが光を弾く。
一流と呼ばれる選手の名が並ぶ打順表を見たとき、智久は唾を飲み込んだ。
(俺でも知っている選手がずらっと並んでやがる)
「大丈夫さ。俺もお前のバックに付くやつらも全員同じだぜ」
その声が智久にはとても頼もしく聞こえた。
一回表、先頭打者は左打ちの俊足外野手。
田岡のサインはカーブ。
智久はうなずき、ゆっくりと振りかぶった。
指先で感じる縫い目のざらつき。
リリースの瞬間、風が頬をかすめた。
ボールはふわりと浮き上がり、ストライクゾーンの端に落ちる。
「ストライーク!」
審判の声に智久は息をほうと吐く。
再び顔を覗かせ、次のサインを見る。
ストレート、内角ギリギリ。
二球目、少し抜けて当たりそうになるが打者が身を捩って事なきを得た。
田岡が立ち上がって返球する。
三球目、チェンジアップ。
今度は外角への出し入れを使う。
打者の体は泳いでしまい、バットに当てるだけ。
セカンドゴロ、ワンアウト。
観客席から拍手が湧いた。
智久は胸の奥で鼓動を数える。
たった一人のアウトが、これほど重いとは。
二番は元首位打者のベテラン。
狙いすましたように初球のストレートを打たれ、ライト前に抜けていった。
走者の足はベテランだからか、けっして速い方ではない。
だがじりじりとリードをする姿は智久を大いに焦らせる。
ベンチの方からざわめきが走る。
心拍が速くなり、掌がじっとりと濡れた。
「おい、焦んな」
田岡がマウンドに歩み寄る。
「一軍の打者は初見で打ってくる。変化球、もうちょい奥に放れ」
智久は短く「はい」と答えた。
指先をロージンに押しつける。粉が風に散った。
三番打者。ハイヤーズの看板スラッガー。
外野は深く守っている。
智久は息を整えた。初球、チェンジアップ。
豪快に振られるがタイミングがずれてファール。
二球目、外角いっぱいのストレート。
スイング、しかしこれもファウル。
カウント0-2。空気が張り詰める。
田岡がサインを出す。
ボールゾーンに逃げていくようなチェンジアップ。
智久はうなずいた。
投げた瞬間、指先が完璧にかみ合った。
打者の体は流れるがかろうじてバットの先で当てる。
ショートゴロ。
二塁は間に合わないか、智久がそう思った。しかしショートは軽やかな動きで二塁に送球、そしてセカンドも分かっていたようにそのまま一塁に転送。
二塁、一塁ともにアウト。
一塁ベンチから歓声が上がる。
智久は無意識に拳を握った。
ベンチからも声が上がった。
「
智久はマウンドを降りる。
スタンドの音が遠くで渦を巻く。
足が少し震えている。
「お前、顔こわばってたぞ」
田岡が笑いながら背中を叩く。
「そりゃ、初登板ですから」
「でも抑えた。とにかく五回までだ、首脳陣も五回投げきれば十分だと思っている」
智久はベンチに戻り祝福を浴びる。
上位打線はルーキになんとか先制点を、と盛り上がっていた。
(まだ一回。熱に飲み込まれるのじゃなくて、コントロールできるようにならないと)
試合はまだ始まったばかり。
智久は緩んでいた顔を叩き、気を引き締めていた。
◆ ◆ ◆
あとがき
こんにちは、モロ煮付けです。
今日、ドジャースが優勝しましたね。大谷選手、山本選手、佐々木選手、おめでとうございます。
劇的な勝利に私も執筆のやる気がみなぎって来ました。さて、智久はようやく一軍デビュー。ここからどう上がって行くのか、楽しみにしていてください。
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