第2話 凡人キャッチャー
冬に入り、肌を刺すような海風が智久の頬を掠める。神奈川の山の方から出てきた智久にとっては少し肌寒さを感じた。
「契約金1000万と年俸420万かぁ。分かってたけどキツイな」
わざわざ千葉の方まで向かったのはシーグルズとの契約を結ぶためだった。1年目の選手に交渉の余地などなく、ものの20分で智久の契約は締結された。
背番号は72番で契約金も年俸も最低額、今更ながらに自分が最下位で入ったことを痛感させられる。
『今、グラウンド空いてるから少し見学してきたら?』
球団本部ですれ違った椎葉は智久にグラウンドに行くように指示をしてきた。智久の高校も世代が交代して練習できるスペースがないのでありがたい話だった。
渡された鍵を使い、ロッカールームのドアを開ける。ポツンとひとつだけ使われていたのでなんとなく隣に荷物を置いてスーツを脱ぎ始めた。
アンダーシャツを被っていると外の方からスパーンという破裂音が聞こえる。誰かバッティングでもやっているのだろうか。
着替え終わり、荷物を持って外に出る。人っ子一人いないはずのグラウンドにはたった一人で打ち込んでいる小柄な男がいた。
(邪魔したら悪いし一人でアップでも始めてるか)
「おーい!無視すんなよー」
小柄な男が大声を上げる。智久は周囲を見渡すがその男以外誰もいない。自分のことだと気づくとため息を吐いた。
「そんな辛気臭いため息吐いてると幸せが逃げるぞぉ。って坂井智久じゃん。同期で入ったて聞いたけどまさかここで会うとは思わなかったよ」
彼は俺のことを知っているようだ。残念ながら智久は同期に1mmも興味が無かったので一方的に知られているだけである。
「すいません、どちら様ですか?」
「おいおい、酷いこと言うなよ。お前の同期の
この小柄な男の名前は中川と言うらしい。キャッチャーにしては小柄な体格で170もない。
「ああ、よろしく。キャッチャーだったら球受けてくれない?アップ終わらせたらすぐ行くから」
中川は笑顔で頷ずく。人当たりの良さそうな顔に智久も親しみを抱き始めていた。
キャッチボールは低く鋭く。智久が野球をやり始めた時から言われてきたことだ。アップは終わり、キャッチボールも仕舞いの段階に入る。
最後に中川のスピンがかかった球を受け取る。智久は右手を挙げて十分であることを示した。
「ナイスボール。ブルペン行くか」
近づいてきた中川から差し出された手にグラブで返す。投手にとっては利き手のハイタッチだけでも感覚が狂う。智久にとってはいつの間にか習慣になっていた。
最初から100%では投げない。防具を着けた中川を立ち上がらせたまま、指の掛かりを意識してストレートをコンパクトに投げ込む。
(そろそろ大丈夫かな)
「座ってもらえるか?」
「りょーかい。変化球投げるなら合図くれよ」
「ストレート」
スリークォーターから放たれたストレートは構えられたミットに吸い込まれる。ボール半個分もズレておらずアウトローギリギリに決まる。
「カーブ」
縦に大きく曲がるカーブは横の変化が小さく、その分ドロンと緩く落ちる。ボールゾーンからストライクゾーンへ、智久が一番得意としている変化球だ。
「シュート」
智久が投げる変化球で高校の時に最も効果的だったのはシュートだ。微妙に変化するシュートは三振こそ奪えないもののゴロを量産する。
30球ほど投げてクールダウンに入る。
事前に準備をしていたわけではないのでこれで十分だろう。
「いやぁ中々いい球だったな。お前本当に6巡目で取られたのか?普通に上位のポテンシャルだと思うんだけど……」
「怪我したからな。それに1回戦から中浜に当たったせいでアピールする場もなかったし」
中川が納得したように手を叩く。
今日会ったばかりなので話題性で取られたことは言わないでおく。
「でもお前はいいよ。怪我しても実力で取られたんだから」
「?お前だって実力じゃないのか?」
「……俺の親父、シーグルズの親会社の役員なんだ。親父はそこに入れって言うんだけど野球、諦めきれなくてさ。プロに入るまでは絶対に辞めないなんて言ったら……」
大きく息を吸う中川。
智久にも事情があるように中川にもあるのだろう。
「ゆっくりでいい」
「ありがと。親父は3年やるとだけ言ったんだ、意味が分からなかったけどシーグルズに指名されて分かった。ああ、これはコネなんだと」
智久は息を呑む。
たしかにキャッチングや打撃を見ても中川にどこか特筆すべき点はなかった。小柄な体格に一芸が無くプロでやって行くのは厳しい。
そんな悲痛な面持ちの中川に智久は声を掛ける。
「じゃあさ、3年死ぬ気で頑張ろう。元天才と凡人、このコンビで日本一取ったら全員見返せる」
中川の瞳に光が灯る。
智久は黙って拳だけを突き出した。
「おう!やってやろーじゃねぇか」
元天才ピッチャーと凡人キャッチャーは拳を交わす。凡人の燻っていた炎は元天才の再燃する炎に当てられ、ゆっくりと光を増していった。
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