最後の肥やし

 惑星ナド・アルカの空は、すでに割れていた。

 硫黄を含んだ風が灰を運び、焼けた地平線が波打つ。海は乾き、街は砂に埋もれ、空にはもう、鳥の影もなかった。


 そんな荒野を、ひとりの男が歩いていた。

 ぼろ布をまとい、腰に干からびた袋を下げ、足取りはのろい。

 それでも時々、顔を上げては笑う。

 愚楽である。


 この惑星に、もはや人は彼一人。

 神も科学も去ったあとに残ったのは、空腹と風と、彼の笑いだけだった。


「……腹が鳴るなあ。鳴くな鳴くな、もうお前しか友だちがいねぇ」


 愚楽は、乾いた丘に腰を下ろした。

 手の中には、最後のパン。

 岩のように硬いが、かすかに麦の香りがする。

 昔、誰かが焼いたものだ。――誰だったかは、もう思い出せない。


 彼はそっとパンをかじる。

 粉のかけらが舌に当たり、苦いような甘いような味がした。


「腹に入れたもんは、いつかまた花になる」

 そうつぶやくと、笑いながらパンくずを風に撒いた。


 かつてこの惑星には、無数の畑と市場があった。

 愚楽はその片隅で、いつも飯を食って、笑っていた。

 だが、ある日風が止み、海が煮え、畑は灰になった。

 皆が逃げ、誰も帰らなかった。


「俺は逃げそこねたなぁ」

 愚楽は空を仰いだ。

 灰色の雲がゆっくり流れ、その向こうに小さな光が見える。

 まだどこかで太陽が生きているらしい。


「おまえも飢えてんのか。俺とおんなじだな」

 風に語りかけるように呟き、彼は腹を撫でた。

 中はもう空っぽだったが、笑うと少しだけ温かかった。


 愚楽は立ち上がると、丘の頂に向かった。

 そこから見えるのは、果てしない灰の海。

 だが、彼には見えた。

 ――その下に、まだ小さな命が眠っている気がした。


「よし、ここに座ろう」


 彼は地面に腰を下ろし、息をついた。

 背中が冷たい土に触れ、ひどく懐かしい気がした。


「腹に入れたもんは、いつかまた花になる」

 もう一度、同じ言葉をつぶやく。

 それは祈りでも理屈でもなく、ただ腹の底から出た声だった。


 そしてしばらくたち、やがて、風が吹いた。

 灰が舞い上がり、乾いた土の隙間で、かすかな緑がのぞいた。

 芽だ。――この惑星で、最後の芽。


 愚楽はそれを見て、にやりと笑った。

「おいおい、まさか俺の腹の肥やしか?」


 そして、ふと我に返る。

「……ってことは、ただの野糞じゃねぇか!」


 風が笑ったように吹き抜け、灰の大地が少しだけ柔らかくなった。

 愚楽はそのまま仰向けになり、腹を抱えて笑い転げた。


 笑いながら、空を見上げる。

 そこには、割れた雲の隙間からのぞく光。

 それは、愚楽の笑顔に似ていた。


 ――風が吹き、芽が伸びた。

 その葉は、誰もいない惑星の真ん中で、ゆっくりと震えていた。


 やがて、愚楽の笑い声だけが、遠い空に溶けていった。

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