第6話 許嫁と、朝と、欲望と

 口が、凌辱されて

 初めてのそれが、全部奪われて。

 おなかの底まで、頭の中まで、尊厳を奪われたような。

 男としての尊厳が、ほんの華奢な女の子にのしかかられて、そして塗りつぶされる。


 唇だけじゃなくて、いろんなものが奪われたような。


 そんな感覚が、全身を支配した。


 これが。


 何か、キス以上に。

 深いものに、触れられた。


「はっ……」


 朝……か。


 夢、なんかじゃない。


 口元に残るこの感触は、確かに昨日のそれを覚えている。


 どく、どくと心臓が震えている。

 体中が熱い。


 ここは。


 昨日の夜の、部屋。


 また心臓が高鳴る。


 目をやると。


 横にいる。漣華さんの姿が。

 向こうを向いて、華奢な細い腰の線が見える。


 どくんと心臓が跳ねた。

 おかしい。

 なんだろう。

 目が離せない。


 その流麗な腰の流れが、どうしてか魅惑的に見える。


 喉が震える。

 一晩が経ったのに。

 まるで今さっき、唇を奪われたばかりのような気がした。


「はあっ」


 どうなってるんだ。

 俺の体。

 何かに突き動かされているような。


 手が、勝手に伸びる。


 細い。小さい。とても、頼りない背中。

 でも、綺麗。

 そんな、しわくちゃな和服の向こう。


 そこにあるはずの小さな滑らかな肌を、勝手に夢想してしまう。


 ダメだ。

 ダメ。


 止まれ。


 犯罪だろ。

 女の子に、対して。


 こんな、寝ている女の子に。

 無抵抗な中で、手を出すなんて。


 あれ?


 でも待てよ。


 夫婦なんだよな。


「はあ、はあ」


 許嫁、なんだよな。


 だったら。


 どうやっても。


「達哉さん?」

「――――――ッッ!!」


 あっ起きッ


 こっち、見てっ。


 やばい、やばい。


「? 大丈夫ですか、達哉さん」


 きれい。

 めっちゃきれい。


 寝起きの髪の毛。

 はらりと動く淡い髪。


 寝起きで半開きの目。


 ころりと寝返りをうつ小さな体。


 全部が、腹の奥底にある何かをそそる。


「達哉、さん?」


 こてん、と。

 今、俺が手を延ばせば、どうにでもできるような生き物が。

 何も警戒せず、純粋な眠そうな目つきで、俺を見てくる。


「ふっ、ふーっ」


 体がいう事を聞かない。

 この体を。


 今。

 今なら。


 どう、にでも。

 好きに。

 俺の好きに。


 頭が勝手に動いて言うことを聞かない。

 大きなものに支配がされて。


 手が震える。

 この綺麗な生き物を。


 もう俺のものなのだから。


 どうしようもなく。

 どうしようもなく手が伸びる。


 ああ今すぐ。


 俺の手の中に――――――


 ヴーッ


「――――あっ」


 スマホの通知。

 がつんと頭を殴られたような気がして実が覚めた。


 見えるのは天井だった。


 ――――夢?


 うそ、だろ。

 夢なのに、なんであんなこと。


 おそるおそる隣を見てみる。

 そこには漣華さんの姿はなかった。


 散らかされたようなベッド。

 かすかに残る漣華さんの匂い。


 思わず目をしかめてしまった。

 その匂いを嗅いだ途端、言いようもなく頭がうずくのを感じた。


 思わず目をそらす。


 ここは。ただ、昨日の、あの誓いの儀を執り行った部屋のまま。


 障子は白く光っていて、まばゆいくらいの朝だった。


 ひどい夢を見た。

 なんであんな、欲望を垂れ流すような夢を。


 ていうか漣華さん、どこへ行ったのだろう。

 そう思っていると、噂をすればなんとやらで、ふすまがすっと開いた。


 びくりと動揺してしまう。

 その姿を見て、夢の中でも欲望を覚えてしまったことに罪悪感を覚える。


 しかし漣華さんは、夢の中と同じように純粋な目で、遠慮がちに微笑んでくれた。


「おはようございます、達哉さん」

「あ、お、おはようございます、漣華さん」


 ろれつが回らない。

 頭の裏に夢の光景がちらつく。

 夢の中なのに、やけに心の裏に残る。


 一体何だったんだ。

 あれだけの激しいキスのせいだったのか。


「あの、達哉さん」


 呼ばれて顔を上げる。

 思わず目を見開いてしまった。

 そこには、顔を真っ赤にして、視線を横へ向けている漣華さんがあった。


 限りない恥じらいの様子で、俺に言って来る。


「すみません、昨夜は。やりすぎ、ました」


 一気に、体中が発火したような気がした。

 その光景が、鮮烈にフラッシュバックする。


「その、勢いに乗ってしまって。本当は、舌をすこし交わすだけでよかったんですけど」


 そう、だったのか。

 いや、それにしても意味が分からないけど。

 なんで漣華さんは勢いに乗ったのかとかは知らないふりをして、俺は口を開く。


「そ、そう、ですか。すみません、おはようございます。儀式とかって、あれで、おわりですか」

「は、はい。あれで大丈夫です。もうあれ以上は、結婚まで、なにもありませんから」


 変わらぬ赤面で、漣華さんはそう言ってくる。

 それにつられて、自分の顔も急速に赤くなっていくのを感じた。


「それで、なんですけど、達哉さん」


 と、漣華さんはつづけた。


「は、はい、なんですか」

「その、学校のことについては、何か聞いていますか」

「え、あ、学校……」


 そうだ。高校。

 前の学校はもうやめて、転校っていう形になったんだっけ。

 詳しく話は聞いていない。


 漣華さんは続ける。


「午後からでいいので、学校に顔を出した方がと、お父さんが。すみません、それだけです」

「え、あ、制服、とかは?」

「昨日のうちに、部屋に届いている、と。すみません、お邪魔しました。準備が終わったら、声かけてください。すみません、じゃあ」


 そう言って、目元を隠すように、漣華さんはそそくさと歩いて行ってしまった。


「……はあ」


 なんて、夢だ。

 漣華さんを、あんなふうに見てしまうだなんて。

 それも、初対面同然の。


 唇を奪われたとはいえ。

 あんな、夢を見てしまうだなんて。


 口元にふと手を当てる。

 昨日、仲を凌辱された感覚が思い出せる。


 生まれて初めての、口の中を好きにされる感覚。


 意思なんて少しも尊重されない、向こうの勝手ばかりの口づけ。


 生まれて初めての、絡み合うディープキス。


「っ、くっそっ……!」


 心の、奥底が。

 腹の奥が、ずぐんとうずく。


 どうしようもできない。


 男の危険な箇所が。


 どうしようもなく、やってくる。


 このまま。

 こんな、どうしようもなく。

 もはや自分の家じゃない場所で。


 すべてが他人で。

 でも、許嫁だけは自分のもので。


 頭がその乖離におかしくなりそうだった。


 どうしようもないくらいに、頭がぐちゃぐちゃになる。


 触れたい欲望が、すべて凌辱された口の中が。

 体を突き動かすように、襲い掛かってくる。


 そんな欲望を、ただ理性を手にして寸前で押しとどめるしかない。


 俺はこの家で。


 どう、すれば……!

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