カオスアクター
然々
第1部【告白の夜】 第1幕
舞台は、まだ照明が落ちたままだった。
だが、彼女はすでに立っていた。
誰よりも早く、誰よりも美しく。
まるで、自分が光そのものだと信じているかのように。
ステージ中央、斎藤瑠奈は、指先で虚空をなぞるようにゆっくりと動いた。
鏡張りのリハーサル室に、彼女の呼吸だけが薄く反響する。
稽古は深夜二時を回っている。それでも、彼女は台本を閉じようとしなかった。
瑠奈にとって、台本は聖典だった。
「真実を演じるために、嘘を塗り重ねる」
その一文を、彼女は自らの信仰として心に刻んでいる。
稽古場の片隅で、若手助監督が瑠奈の姿を見つめていた。
彼は、彼女が何をしているのか理解できなかった。
演技をしているのか、現実を再現しているのか。
台本にない台詞を呟き、まるで誰かと会話をしているように微笑んでいる。
> 「……あなたも、見ているのね。」
「ええ。もちろんよ、先生。」
鏡に向かって微笑む瑠奈。
その「先生」とは誰なのか、誰も知らない。
脚本家のことか、過去の恩師か、それとも――彼女の中にいる“誰か”か。
翌朝、稽古場に入った舞台監督が悲鳴を上げた。
鏡の裏、照明コードに絡まるように吊るされたマネキン。
首には真紅のリボンが巻かれ、唇にはルージュでこう書かれていた。
> 「告白の夜、始めましょう」
それはまるで招待状のように舞台照明に照らされていた。
誰が置いたのか、誰も知らない。
だがその夜、リハーサルの初日にもかかわらず、劇場には異様な観客が集まった。
巷では“噂”が、すでに街を這い回っていた。
――「あの女優が、本当に人を殺して演じるらしい」と。
────────────────────
都内の捜査一課、夜明け前。
曲輪京介は机の上に置かれた新聞の見出しを見つめていた。
《若手女優・斎藤瑠奈、恋人転落死――事故死か》
「事故死、ねぇ……」 彼は小さく笑い、煙草に火をつける。
報道では、彼女の恋人・俳優の相原がマンションのベランダから転落したとされている。
事故とも自殺ともつかない死。
だが、現場に残された一枚の紙が、事件を奇妙な方向へ導いた。
> 『第一幕 告白の夜』
登場人物:罪を抱えた恋人。
結末:彼は空へ落ちる。
それは、まだ公表されていない舞台台本の一節だった。
脚本家の誰も、そんな台詞を書いていない。
では――誰が、書いた?
曲輪は、劇場に足を踏み入れた。
稽古中の舞台上で、瑠奈が静かに立っていた。
照明が彼女を照らすと、まるで聖母像のような静謐さと、狂気が同居して見えた。
曲輪は瑠奈を呼び出し、恋人の死についてたずねた。
「刑事さん。私、ただ“演じた”だけなんです。」
「……何を?」
「“彼が落ちる”って、台本に書いてあったもの。」
突然恋人が亡くなり気が動転しているのかとも思い事情聴取はすぐに終え、彼女は仕事場へ戻っていった。
だが、瑠奈の瞳は澄んでいた。
罪の意識も、恐怖も、後悔もない。
ただ、「役を生ききった女」の静かな誇りがそこにあった。
────────────────────
夜。
瑠奈の脳内は、静まり返った劇場のようだった。
照明が落ち、観客席には誰もいない。
ただ、暗闇の奥で“脚本家”の声が響く。
> 《次の幕を始めよう。観客はまだ眠っている。》
《君が殺すたび、彼らは目を覚ますんだ。》
瑠奈は、微笑んだ。
自分の脳が、まるで“台本を書く装置”のように動いていることを知っていた。
誰かが彼女の頭の中でペンを走らせ、現実を脚本に書き換えていく。
その筆跡は、確かに自分のものだ。
――でも、書いているのは“自分”ではない。
> 「いいえ、違うの。私はただ……読んでいるだけ。」
観客のいない劇場。
終わらないリハーサル。
そして、“本番”の鐘が鳴る。
> ――カンカンカン。
舞台の幕が、ゆっくりと上がっていく。
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