神様の悪ふざけ
私が幼稚園のころ、両親と一緒に見た映画があった。 母はいつも遅くまで起きているのを許してくれなかったのに、その時は何故か何も言わなかった。映画は、ちょっと間抜けな青年が主人公だった。 内容は幼い私には難しくて分からなかったけれど、彼が言う言葉だけは、なぜか頭に残った。
「人生はチョコレートの箱、開けてみるまで何が入っているか分からない」
あの時、なぜ私は、お母さんが喜んでくれると本気で思い込んでいたんだろう。 私はあの日、人生で初めてのチョコレートの箱を開けた。 そこに入っていたのは、チョコレートでも何でもない、蠢うごめく無数の虫だった。
玄関のドアを開けた時、得体のしれない不快な匂いがした。 空気は張り詰めていて、まるで誰もいない家みたいだった。何の気配も音もしない。 家の中は、なぜか真冬のように「冷たい」空気が張り付いていて、いつもの家にはない、透き通るほどの「死の匂い」がした。 もちろん、死臭なんて嗅いだことはない。けれど、そう言い切ってしまえるほどの匂いだった。
リビングのカーテンは閉め切られ、薄暗い部屋の真ん中に、お母さんが影のように座っていた。
「ただいま。ママ、テスト!」 私は声を弾ませて、答案を母親の前に差し出した。 お母さんは微動だにしなかった。
「ママ、テスト! 95点だった!」
弾んだ声は、薄暗いリビングの暗闇に吸い込まれて消えた。 その時私は、家中の電気がついていないことに気づいた。お母さんは真っ暗なリビングで、ただ一人で座っていたのだ。 私が帰るまで、ずっと。
お母さんはゆっくりと振り向いた。 その顔を、私は一生忘れない。 何の感情も浮かんでいなかった。
私はもう一度、テスト用紙を差し出した。 お母さんはそれを受け取らない。 ただ、じっと、私の顔を見ていた。 「……ママ?」 お母さんは、おもむろにそのテスト用紙をひったくった。 そして、その「95」という数字を、真紅しんくのマニキュアが塗られた指先で、ゆっくりと、なぞり始めた。
沈黙。 時計の音だけが、かち、かち、と鳴っていた。
指はまた、紙をなぞった。 やがて、お母さんは顔を上げた。その顔は、口だけが三日月みたいに歪ゆがんでいた。 その表情を、私は今も忘れることができない。
「…95点。…5点、足りない」
声に、抑揚はなかった。 バカで能天気だった私でも、その状況がどれだけ深刻か、すぐに分かった。 顔に、体に、氷みたいな空気が張り付く。世界がぐるぐると回る。目の前のお母さんが、大きく、小さく、歪んで見えた。
「どうして? なんで『100点』じゃないの? ママは、こんなに頑張ってるのに。パパも帰ってこないのに。なんであんたまで、ママを『裏切る』の?」
「裏切る」? 私には、その言葉の意味が分からなかった。 目の前にいる「これ」は、私の知っているお母さんではなかった。 知らない「何か」だった。
次の瞬間、お母さんは甲高い声で叫び出した。 あの歪んだ表情のまま、私が聞いたこともない言葉を吐き続けた。 「あんたみたいな子は、いらない!」
お母さんは叫ぶと、私の髪を掴み、玄関まで引きずっていった。 髪が、ブチブチと切れる音がした。 気がつくと、私は玄関の外に突き飛ばされていた。ランドセルも背負ったまま。 ガチャン、と鍵を閉める音がして、世界から切り離された。
何が起きたのか、理解できなかった。 何分たったのかも分からない。ただ呆然としていた。
「ママ! ママ! 開けてよ!」
正気に戻った私は、精一杯声を出してドアを叩いた。 中からは、お母さんの嗚咽おえつが聞こえるだけだった。 さっきまであんなに暖かかった太陽は、もうビルの向こうに隠れそうで、影が急速に私の足元を黒く染めていく。 寒い。怖い。
その時、家の中から、閉め切ったドアを突き破って、テレビの音が漏れ聞こえてきた。 それは、お母さんがさっきまで見ていたワイドショーの音声だった。 男の人の、深刻そうな声。
『……青少年に悪影響を与えるとして、各地のPTAは……』 『…なぜ、このような『死のマニュアル』が……』
私は、冷たいコンクリートの上にうずくまったまま、その意味も分からない「死」という言葉を、ただずっと、聞いていた。 色鮮やかだった世界は、もうどこにもなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます