第36話

その夜。俺が契約したばかりの築40年の事故物件は、かつてないほどの「非日常の圧力」に晒されていた。


​午後九時。マンションの前に、黒塗りの最高級セダンが音もなく横付けされた。


​中から降りてきたのは、葵が「天童先生」と呼んだ男だった。彼は、年齢不詳。全身を深い藍色の着物に包み、手に持った黒檀の杖を静かに突いている。その顔は、まるで能面のように整然としていて、感情が読めない。


「葵様、お久しぶりです。この度は『エネルギーの穢れ』ですか。いつものように、最高クオリティの結界を張りましょう」


​天童先生は、俺やハルには目もくれず、葵にだけ深々と頭を下げた。その立ち居振る舞いには、何十年もの修行に裏打ちされた、本物だけが持つ威厳があった。


​「ええ、先生。お願いしますね。私、愛の業務の質には妥協できないの」


​葵は、五〇〇万円の支払いを約束したとは思えないほど、軽い口調で応じた。彼女は、トップ女優としての揺るぎない自信を纏い、自分の愛の業務の環境を整備することに集中しているように見えた。


藤村さんが、手早く天童先生に契約書と支払いを確認する。


​(たった数時間の作業に五〇〇万円。俺の数年間を賭けた貯蓄が、この男の前に並べられているのか……)


​俺の胃は、もはや痛みを超えて、呆れて痙攣していた。


​天童先生は、俺の平凡な書斎となるはずだった和室へ、静かに足を踏み入れた。


​彼は、畳の上に、古木の箱から取り出した絹の布を敷いた。その上に置かれたのは、一本の古い蝋燭と、青銅の小さな香炉だけだ。


​蝋燭に火が灯されると、和室の空気が一気に張り詰めた。香炉からは、伽羅(きゃら)のような、重く、深く、そして何世紀もの歴史を感じさせる香りが立ち上る。


「古いエネルギーを打ち消すには、根源的な『火と土と木の力』が必要です。この空間に、『神崎葵の愛のエネルギーに相応しい、新しい結界』を張らせていただきます」


​天童先生は、目を閉じ、低く、腹の底から響くような声で祝詞を上げ始めた。その声は、荘厳で、恐ろしい。


​葵は、その間、ただひたすら和室の入り口に直立し、顔色を変えずにその光景を見つめ続けている。彼女の眼差しは真剣そのもので、まるで自分の重要な映画のシーンをチェックしているかのようだった。


​ハルは、さっきまで唸っていたのが嘘のように、静かに体を震わせながら、畳の上に伏せてしまった。


​『ご主人、この男は本物よ。あの女の愛と同じくらい、逃れられない、強烈な力を感じるわ……』


ハルが心の中で囁いた。


​祝詞が終わると、天童先生は、和室の四隅に、煤で黒く汚れた小さな木札を、一瞬の動作で埋め込んだ。そして、静かに立ち上がった。


​「これで、結構」


​作業は、わずか十分。しかし、部屋の空気は、完全に変わっていた。



葵は、天童先生が帰った後すぐに和室へと足を踏み入れた。そして、深く、大きく息を吸い込んだ。


​その顔には、先ほどまでの強張った緊張の跡はない。あるのは、全てをやり遂げたトップ女優としての揺るぎない自信だ。


​「ああ……! 素晴らしいわ、雪之丞さん! あの粘着質で、湿った嫌な匂いが、完全に消えている! 代わりに、清浄で、甘美な、新しい空間の香りがするわ!」


​葵は、満面の笑みで俺に抱きついた。


「ねえ、見て。あなたが選んでくれた『平凡すぎる築古物件』が、先生の力で、最高の『愛のチャージ空間』になったじゃない!これで、私、安心して『愛の業務』に集中できるわ!」


​彼女は、何の悪気もなく、俺の『最後の砦』が『五百万円の除霊費をかけた最高級リフォーム物件』へと変貌したことを喜んでいる。


俺が「なぜそこまで……」と、呆然と立ち尽くしていると、葵は、俺を誰もいない廊下に引き寄せた。


​「あのね、雪之丞さん……」


​彼女は、俺のシャツの裾をギュッと掴んだ。その声は、直前の女優のトーンとは違い、少しだけ、甘く、そして、切実に震えていた。


​「私、本当は、ああいうオカルト的なもの、大の苦手なのよ。昔、地方のロケで、お祓いが必要な古い旅館に泊まったとき、怖くて一晩中眠れなかったくらい……」


​(え!? オカルト嫌い!? そんなそぶり、全く見せなかったのに!?)


俺は、天童先生の前に直立不動で立っていた葵の強すぎる意志を思い出した。


​葵は、俺の胸に額を押し付けた。


​「でも、仕方ないじゃない!あの部屋の『粘着質な、負のエネルギー』が残っていたら、私のチャージ効率が落ちちゃうでしょう?そのせいで、私の身体が休まらず、雪之丞さんとの愛の業務の質が低下したら……それこそ、大問題よ!」


​「だから、怖くても、五億円でも払って、全部消し去る必要があったの。全ては、あなたとの愛のクオリティのためだもの」


​俺は、言葉を失った。


(葵は、自分の根源的な恐怖心や数年分の給与に相当する出費すら、「俺への愛の業務」という大義名分の前では、躊躇なく犠牲にするのか……!)


​俺の胃は、葵の強がりと、その裏にある、狂気にも似た俺への愛の執着に、二重に打ちのめされた。


​築40年の事故物件という、俺の最後の砦は、「トップ女優の愛の業務専用、最高級結界付きの聖域」へと変貌したのだ。


​「さあ、雪之丞さん!あなたの本物のキングサイズマットレスも、もうここに運び込まれているわ!今夜は、このクリーンで、愛の結界が張られた新しい砦で、最高の『愛の業務』を遂行しましょう!」


葵の言葉に促され、俺は、「平凡な書斎」の夢が潰えた和室に、そっと鍵を閉めた。そして、隣の部屋で俺を待つ、キングサイズマットレスと葵の熱い愛に、抵抗する術がないことを悟ったのだった。



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