第35話
夕方。俺は、旧アパートへと戻った。
部屋の中には、安藤さんの手配した業者が置いた、ダミーの家具が鎮座している。IK◯EAの安価な折り畳みマットレスと、十年前の型落ちの空気清浄機だ。
その平凡さに、俺は一抹の安堵を覚えた。
そして、間もなくして、葵が帰宅した。
「ただいま、雪之丞さん!ああ、疲れたわ。さあ、愛のチャージを……」
葵は、いつものように、愛の業務遂行ルームに足を踏み入れた。そして、ダミーのマットレスに触れた、その瞬間だった。
「雪之丞さん。これ、私のキングサイズじゃないわよね?このマットレス、『愛のエネルギー』がゼロじゃない。それに、この空気清浄機……この『平凡なモーター音』は何?私、デリケートな女優肌だから、これだと持たないわよ」
(やっぱり気づいたか!葵の非日常センサー、恐るべし!)
俺は、用意していた「メンテナンス」の言い訳を口にしようとした。
「あ、葵。実は、備品が……」
しかし、葵は俺の言葉を遮った。彼女は、部屋を見渡し、俺の荷物が消え、ダミーの家具だけが残っていることに気づいた。そして、全てを『愛の業務』に都合よく解釈した。
「わかったわ、雪之丞さん。あなたは、私との『愛の業務』を最高クオリティで遂行するために、私たちに最適な新しい拠点を見つけてくれたのね?」
俺は、その解釈の飛躍についていけず、ただ立ち尽くすしかなかった。
「……ま、まぁ、そういうことになる」
「素晴らしいわ! さすが、私の『平凡な日常担当』だわ。さあ、行きましょう。新しい愛の業務拠点へ!」
葵と、その場に控えていた藤村さんを連れて、俺は築40年の事故物件へと向かった。
安藤さんから託された新しい鍵を使い、ドアを開ける。
部屋に入った葵は、まずその広さに目を輝かせた。彼女の非日常な視点から見れば、古い物件だろうが、広ければ全てが『愛の業務拡大のための可能性』に見えるのだろう。
「ああ、素晴らしいわ!この広さなら、キングサイズも余裕で置けるのね。これで、『愛の業務』の規模を拡大できるじゃない!」
俺の胃は、『業務拡大』という言葉に、再び鈍い痛みを感じた。
しかし、次の瞬間、葵の顔色が変わった。
彼女は、広々としたリビングを横切り、俺の平凡な書斎となる予定の和室を指差した。
「雪之丞さん。この部屋……『非日常のエネルギー』が、変よ。冷たいし、粘着質で、何かが張り付いている匂いがする……。これだと、『愛の業務』のクリーンな遂行に支障が出るわ」
『ほら見たことか。やっぱりあの女の「非日常」とは種類が違うわ』
ハルが心の中で言った。
葵は、持っていたブランドバッグを床に置くと、すぐにバッグの中を探り始めた。そして、特別な金色のスマートフォンを取り出した。
「藤村!ちょっと、あなた今日はあっちの業務があるでしょう?大丈夫よ、こういうのは私が直接動く方が早いの」
葵は、慣れた様子で、スマホに登録されているであろう「非日常の専門家」の連絡先を探し始めた。
「あったわ。『日本最強の霊媒師、天童先生』。幸い、まだ明日まで都内にいらっしゃるはずよ」
彼女は、俺たちに背を向けて、電話をかけ始めた。
「もしもし、天童先生?葵よ。ええ、今『愛の業務』で使っている新しい拠点で、ちょっと『エネルギーの滞り』が発生してしまったの。そう、ちょっと粘着質な……。ええ、費用は気にしなくていいわ。今日の夜までに、全部綺麗にしてほしいの。最高の『愛の業務』を遂行するためには、不純物は一切認められないもの」
電話を終えた葵は、優雅な仕草で俺たちに振り返った。その顔は、まるで新しいドレスを選んだかのように満足そうだ。
「良かったわ、雪之丞さん。先生、すぐに来てくださるって。費用は五〇〇万円だそうよ。愛の業務のクオリティのためなら、五億円でも安いものじゃない?」
(五〇〇万!?俺が築古事故物件で逃げようとした意味が、一瞬で……!)
俺が「平凡な避難所」として選んだ事故物件の「非日常」は、葵の「非日常の桁違いの金銭感覚」という、最強の霊媒師の力によって、あっという間に無効化されてしまったのだった。
俺の胃は、ついに悲鳴を上げ、再びキューッと絞り込まれた。
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