第25話

午後3時33分。


​屋上での「愛のインカム業務」を終えた俺は、疲弊しきった心と胃に鞭打ちながら、午後の業務に戻った。デスクに戻る途中、すれ違った同僚たちの視線が、昼休み前よりもさらに熱くなっているのを感じた。


​(まさか、葛城さんから連絡が入ったのか? 「佐倉様の些細な愚痴が、葵様の現場に新たな業務マニュアルを制定した」とか……)


俺の周りの世界は、もはや「平凡」という名の解毒剤が効かない、葵の非日常という名の猛毒に完全に侵食されていた。


​その日の夜、アパートに帰ると、葵はすでに帰宅しており、新しいベージュ色の平凡なソファで、俺の膝を枕にして熟睡していた。傍らには、俺が朝飲んだ缶コーヒーの空き缶と、読みかけの週刊誌が置かれている。


​『ご主人、おかえりなさい。葵は、平凡なデトックス業務に没頭して、爆睡よ。』


​ハルが、疲れた顔で俺を迎えた。


​「ああ、ただいま。ハル、お前も疲れただろう。マメは?」


『マメは、例の最高級ジャーキーの破片探しの任務を遂行するため、今、ベランダで熱心に土を掘り返しているわ。完璧な封じ込めよ。』


​俺は、葵の頭をそっと撫でた。トップ女優の顔ではない、ただの無防備な少女の寝顔だ。


​「葵、愛してるよ」


​俺は小さな声で呟いた。その声は、誰にも届かない、俺自身の「平凡な愛の業務」だった。


​土曜日。


​珍しく葵が終日オフの日だった。俺たちは、新しいソファの上で、ゆったりとした時間を過ごしていた。


俺は横になってテレビを見ており、葵は俺の腹の上で、週刊誌の芸能ニュースを読んでいた。


​「ねえ、雪之丞さん」


​葵が、週刊誌から顔を上げた。


​「私のライバル女優の朝霧さやかが、新しいドラマで私と共演するんだって」


​「へえ、そうなのか。朝霧さんって、たしかクールビューティーで人気の女優さんだよな」


​「ええ。彼女は、私と同じでトップ女優として知られているけど、私とは真逆なの。彼女は私生活を一切明かさず、SNSもやらない。謎めいた孤高の女王様を演じているわ」


​葵は、少し不満そうな顔をした。


​「それに比べて私は……雪之丞さんという平凡なサラリーマンの彼氏がいて、愛の業務命令とか言って、公衆の面前で膝枕業務を強要したり……スキャンダルだらけね」


​「まあ、そうだろうな。そのスキャンダルのおかげで、俺の胃は常にキリキリしているが」


​「ふふ、ごめんなさい。でもね、雪之丞さん。私は、朝霧さやかみたいに完璧な女優として生きるよりも、雪之丞さんの平凡な日常にいるただの葵でいたいんだ」


​葵はそう言うと、俺の腹の上に顔を埋めた。


​『ねえ、雪之丞さん。私、一つお願いがあるの。これも、愛の業務命令よ。』


「なんだ?」


​『あなたの平凡な週末を、私に記録させて。どこにでもある、一番平凡なものを、非日常的な愛情で記録するの。』


​そして、午後。俺の平凡な週末は、葵の「非日常的な記録業務」によって、完全にハイジャックされた。


​「雪之丞さん、動かないで! これは『疲れたサラリーマンの最も平凡な午後』というタイトルの、芸術作品よ!」


​俺は、新しいソファの上で、ビール片手にポテトチップスを食べている姿を、葵の専属チームが使うような超高級な一眼レフカメラで撮影された。


「この銀色のパッケージのビールと、ポテトチップスの組み合わせ。これは、平凡さの頂点ね。この平凡さが、私の愛の業務を支える基盤なの!」


​葵は、まるで美術館のキュレーターのように熱弁を振るいながら、シャッターを切り続けた。


​「次は、『真面目な彼氏の、最も無防備な寝顔』よ!」


​葵は、俺がうっかりうたた寝をした瞬間、顔をアップで撮影した。


​「雪之丞さんの目の下のクマ、これは愛の業務の成果ね。このクマは、私の愛情管理の記録よ!」


そして、極めつけは、夕食の時だった。


​「雪之丞さん、ストップ! これは『平凡なアパートの食卓に並ぶ、トップ女優の愛情』というタイトルの、ドキュメンタリーよ!」


​葵は、俺が適当に買ってきたインスタントラーメンと、葵が作ってくれた有機野菜のサラダが並ぶ食卓を、あらゆる角度から撮影した。


​『このインスタントラーメンが、雪之丞さんの譲れない平凡な領域ね。そして、この有機野菜のサラダが、それを侵食しようとする私の愛の業務。この二つが並ぶ光景こそ、私たちの非日常的な日常なのよ!』


葵は、撮った写真を満足そうにチェックし、突然閃いたように言った。


​『よし。雪之丞さん、この写真の数々を、私のSNSにアップするわ。「トップ女優の私生活、大公開! 私が最も愛する平凡な時間」ってタイトルでね。』


​「はぁっ!?」


​俺は、思わず持っていた割り箸を落とした。


​「葵! やめろ! 俺の平凡さが、全世界に晒されることになるだろ!」


​『大丈夫よ。顔には特殊なモザイクをかけるわ。でも、あなたの銀色のビールの缶と、古いアパートの景色は、モザイクなしよ。朝霧さやかが孤高の女王様なら、私は愛の平凡さを追求する女優として、新たなブランドを確立するわ!』


葵の瞳は、新しい演技の方向性を見つけた時のように、キラキラと輝いていた。


​「これも、業務よ! 私の女優としてのクオリティ向上のための、最重要業務だから!」


​俺の抗議は、トップ女優の業務命令という名の絶対的な壁に、あっさりと撥ね退けられた。


​その夜、葵のSNSは炎上した。しかし、それはネガティブな炎上ではなく、「トップ女優が愛する平凡な日常」への共感と「モザイク越しの彼氏の生活感」への好奇心による、ポジティブな炎上だった。


​翌週。俺の会社、サンライズ・ビバレッジの朝礼で、社長が再び小躍りした。


「佐倉くん! 君の銀色のビールが、神崎様のSNSにアップされたおかげで、我社の缶コーヒーとエナジードリンクが、『神崎葵の彼氏が愛飲する、日本の働く男の魂のドリンク』として、全世界で話題になっているぞ!」


​俺の平凡な缶ビールへの愛は、トップ女優の非日常的なSNSを通して、グローバルなマーケティング戦略へと昇華されてしまったのだった。


​俺の胃は、今週もキリキリと痛んだ。


​平凡な日常は、いつになったら俺に戻ってくるのだろうか……。




​読者の皆様、今回も読んでくださりありがとうございます!

​雪之丞さんの「平凡な週末」が、葵さんの「非日常的な記録業務」によって、全世界に公開されてしまいました。平凡な彼氏の存在を隠すどころか、新たなブランド戦略に利用してしまう葵さんの発想は、まさにトップ女優ですね!

​【質問です!】

​Q. 葵さんのSNSに公開された写真を見た朝霧さやかは、どんな反応をすると思いますか?


ぜひコメント欄で皆さんのご意見を教えてください!

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