第26話

〜ハルSide〜


土曜日の朝。気分は最低だったわ。


​ご主人の胃の調子が良くなった途端、あの女は早速、「雪之丞さんの健康維持」という名目のもと、私にとって最も不快な命令を下した。


​『土曜日は全員で公園へ散歩に行くわよ。雪之丞さんの健康維持の為にね』


​……私はシベリアンハスキーよ。本来は自由奔放に走り回るべき存在である私が、あの女と、そしてあの馬鹿(マメ)と一緒にリードに繋がれて歩くのは、私のプライドが許さないのよ。ご主人も、あの女の愛情に慣らされて、私の不満などまるで気にしない。本当に甘くて、イライラするわ。


そして、最も気が散る要素。神憑った馬鹿ことマメが、公園に到着した途端、五月蝿いことこの上ないわ。


​『うおおおおお! 姐さん! 見てください! 広大なドッグランだ! 俺の血が騒ぎます!』


​マメは地面を嗅ぎ回るばかり。まったく知性がない。

あの女が喜ぶから、ご主人も仕方なく付き合っているだけ。私は、ご主人と一緒にベンチに座り、この騒々しい時間が早く終わるのを待っていた。


​その時だった。


マメが、公園の端にある「立ち入り禁止」のテープを、馬鹿なテンションで突破した。


​『突破! ここに何か凄いものが隠されているに違いない!』


​(あの馬鹿! 待ちなさい! 騒ぎを起こさないという最低限のルールすら守れないの!?)


​マメは、私の静止も、あの女の叫び声も聞こえないほど興奮していた。そのまま、交通量の多い一般道へと飛び出す。


​私の冷静な頭脳は、即座に状況を分析した。



・危険: MAX。

​・結果: マメの命が危ない。そして、ご主人の胃が確実に再発する。あの女は錯乱する。


​私が動こうとした瞬間、一瞬の灰色の閃光が、私の視界を切り裂いた。


​運命の侵入者。


​私の視界に飛び込んできたのは、私と同じ血を引く、堂々たる体躯のシベリアンハスキー(オス)だった。


彼は、迷いがなかった。


まるで、その一瞬のために生まれてきたかのように、一切のブレがない。


​ハスキーは、猛スピードでマメに接近し、その首輪を迷うことなく、強く咥え上げた。

そして、マメを車道から安全な芝生へと放り投げる。


その動きは、無駄がなく、あまりにも速かった。

​直後、セダンが通り過ぎる。


​息を呑んだ。


​私は、心の中で、そう感じていた。彼の動きは、私が求める「理想の姿」そのものだった。騒ぎに惑わされず、ただ必要なことだけを遂行する集中力。


そして、彼は、マメの安全を確認した後、私たちの方を一度も見ることなく、クールに公園の入口へと引き返していった。


​その横には、穏やかな笑顔を浮かべた飼い主の男性がいた。彼もまた、ご主人の感謝の言葉に、静かに会釈を返すだけで、何も語らなかった。


​静かで、強くて、そして美しい。


​ハスキーが公園から姿を消した瞬間、私はゆっくりと地面に座り込んだ。


​『…………ご主人』


​私の声は、これまでにない熱と戸惑いを帯びていた。


​「どうした、ハル? 怖かったのか?」


​『違うわ。違うのよ。』


​私は、前足で自分の胸元を抑えた。


​『私……私……衝撃を受けたわ。あの犬のすべてに。あの冷静さと力強さ……そして何も語らない寡黙な姿勢……』


​これは、これまでの私には理解不能な感情だ。


私の心は、理屈ではなく、根源的な衝動によって支配されている。


​(キュンキュン……これが、あの女がたまに言う「恋」という非日常なの……?)


​その隣で、馬鹿が相変わらず騒いでいる。


​『パパ! 姐さん! 俺、今、凄いことをした気がする! 黒いセダンから、ママの愛のエネルギーを守り切ったんだ!』


​マメの騒がしさは、もうどうでもよかった。私の興味は、完全に運命のハスキーに奪われてしまった。


​私は、マメを軽蔑するのも忘れて、ただ、ハスキーが消えた入口を見つめていた。


​(彼の名前は? どこに住んでいるの? 彼のことをもっと知りたい。私は、あのハスキーに会うという、人生最大の目標ができてしまった)


私は、「平凡な日常」を望むご主人の隣で、「非日常的な恋」という、人生最大の衝動を遂行することを決意した。





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