異世界冷蔵庫

 二人は出来たてホヤホヤのログハウスの前に立った。


「なんですかヤエさんこの名前は」

 その入り口の扉を見て、テレジアが微妙な声を出した。

 そこにはデカデカと『狸のしっぽ亭』と書かれていたからだった。


「ふふ、可愛い名前でしょう? カフェ風にしたかったからね。やっぱりカフェには名前がないと、と思って。何にしようか迷ったんだけどね、ここにいるのは全部テレジアさんのおかげでしょう? だからテレジアさんにちなんだ名前にしたいなと……だめかしら?」

 その表情はダメと言っても変えないけどね、と書いてあった。


「ふーん、いいでしょう。狸は世界一可愛い生き物ですからね」

 そっけない言い方ながら、まんざらでもなさそうなテレジア。


「よかったわ」

 ヤエはそんなテレジアを可愛いなと思った。


「さっさと中に入りましょう」

 テレジアの提案にしたがって家の中に入ることにした。


 ログハウスの室内は外見と同様にヤエの理想の形そのものだった。


 落ち着く感じのL字型のカウンター席、日当たりの良い四人掛けのテーブル席、作業がしやすそうに動線の整ったキッチン。どこか前世で好きだった店に似ていた。


 ゆっくりと室内を見ながらキッチンの中に入って、そこから外をみるとまた見え方が違って、それは転生前にヤエの願ったスローライフそのものな光景だった。


 森として過ごすスローライフも楽しかったけれど。


 受肉して、カウンターの中から見るこの光景も、また別の幸福なスローライフの形だな、とヤエは思う。


 人間と関わる決意をして、人間の世界に森を伸ばしたら、人間の赤子が森に生えた。

 この子が生えなかったら、きっとヤエはこの光景を見ることもなく、森として永劫の時間を過ごしていたかもしれない。


 そんなきっかけをくれた腕の中の赤子を見る。


 泣くこともなく腕の中でニコニコと笑っていて、差し出しされたヤエの指を小さな手で掴んだまま、今はそれを自分の口に持っていき、ちゅぱちゅぱと吸っている。


 その姿を見たヤエは重大な問題に思い至った。


「ねえ、テレジアさん、母乳でる?」

 カウンターの上で丸くなっている狸テレジアに問う。


「なんですかいきなり。私はれっきとた女神です。つまりは乙女ですよう? そんなもん出ません」

 顔を軽く上げてテレジアは不満げに答える。


「そうよねえ」

「急にどうしたんですか?」

 困った顔をしているヤエに今度はテレジアが問いかける。


「えっとね、この赤ちゃん、さっきから私の指を吸ってくるから、もしかしてお腹すいてるのかも、と思って」


「確かにそうですねえ。動物の赤子は乳を吸わないとすぐ死にますからねえ。ヤエさんは出ないんですか?」


「うーん。どうも私の身体って木でできてるみたいで。頑張っても樹液くらいしかでなさそうなのよ」


「へえそうなんですか。考えてみれば、ヤエさんって森そのものだから、受肉体は木で出来てるのが自然なんですねえ。この家もヤエさんの森を変化させた物だから全部木で出来てますもんね」


「そうみたい。だからね、私もお乳は出ないのよ。この世界って前世みたいに粉ミルクとかないわよね?」


「この世界に粉ミルクがあるかは知りませんねえ。でも食べ物で困ってるならヤエさんの成長速度十億倍で軽く成長させて外の世界に巣立たせたらいいじゃないですか」


 テレジアは神らしく身も蓋もないことを言う。


「ダメよ。そんなことしたら身体だけ大きくなった赤ちゃんができるだけ。すぐ死んじゃうわ」


「そうなんですか。じゃあどうしてもミルクは必要になりますねえ」


「そうなのよねえ。困ったわ」

 困り顔のヤエをテレジアは不思議な顔で見ている。


「困りますか? 粉ミルクって日本にあった赤ん坊に飲ませる水溶き粉ですよね?」


「そうだけど? この世界にあるの?」


「ん? この世界にあるかどうかはさっきも言ったように知りませんけど。ヤエさんの前世の日本にあるんだったら、そこの冷蔵庫から出したらいいんですよ?」


 そう言いながら、テレジアは鼻先でヤエの背後を示す。


「冷蔵庫?」


 テレジアの言葉に従って背後を見れば、確かに前世で見た記憶のあるスタンダードな大型冷蔵庫があった。


 それは全て木で出来ているこの家の中の異質な金属製品だった。

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