第4話 創造の根源

 子どものころ、俺の世界は、紙と鉛筆とインクで満たされていた。

 教室の隅で机に突っ伏しながら描いたヒーロー漫画。


 放課後の図書室で、光の差し込む窓際に座り、勇者ルナテミスが魔王に立ち向かう場面をペンでなぞる手。

 夜が更ける頃、ベッドに潜り込み、布団の中で小さなランプの光だけを頼りに描いた冒険者たち。

 俺の世界は、紙の上で自由に生き、俺自身の小さな声や希望、夢や喜びを映し出していた。


 

 ――ぼくのしょうらいのゆめは、まんがかです。


 なぜかとゆうとえをかくのがだいすきだからです。

 

 みんなのこころをしあわせにできるようなまんがをかきたいです。――


 

 小学校の作文に書いたその言葉は、純粋な決意であり、胸の奥でほのかに揺れる炎だった。

 その夢を抱く俺の目はいつも輝き、描くたびに手が震え、息が高鳴った。


 しかし現実は、甘くはなかった。

 クラスメイトに初めて漫画を見せた日、笑われ、鼻であざ笑われ、手に汗を握りながらも必死に言い訳をした。


 文化祭では、自作のポスター漫画が台無しになり、先生に「もっとまともに描け」と突き返される。


 果たして彼らに悪意があったのかどうかは定かではないが、友人や先輩に設定や絵を嘲笑され、笑い声が胸に刺さった。


 それでも描き続けた。

 夜、家に帰っても、暗い部屋の片隅でペンを握り、勇者や魔王の冒険を描き続けた。

 窓の外の街灯の光が揺れるたびに、自分の世界も揺れるように感じられ、孤独でありながらも希望を抱き続けた。


 そして高校生になり、夢は現実の壁にぶつかる。

 描き上げた原稿を胸に出版社に向かい、心は期待で膨らんでいた。


 「これが俺の全力です――読んでみてください」

 手に握った原稿の重みは、希望の象徴であり、同時に不安の塊でもあった。

 

 ――他の皆が無理でも、編集者さんなら俺が描いた漫画の面白さを、理解してくれるはずだって。

 そう、信じて。


 だが、編集者の冷たい視線は容赦なかった。

 ページをめくるたびに眉をひそめ、机の上でペンを指で叩きながら告げられた言葉は、胸に突き刺さる刃のようだった。


 「才能がない。構図も話の流れも滅茶苦茶だ。キャラクターも感情が伝わらない」

 「ここまで未熟だと、アドバイスをいくらしても意味がないぞ」


 その瞬間、いとも容易く俺の世界は崩れた。

 喉の奥が焼けつくように乾いて、息がうまくできなかった。


 手に握っていた原稿は、もう紙じゃなかった。

 夢を詰めたはずのページは、熱も、重さも、痛みも全部、俺自身の無力さに変わっていた。


 ――たったこれだけのことで、と思うかもしれない。

 けれど、あの瞬間の俺にとっては、あれだけのことで十分だった。胸の奥が、ぐしゃりと潰れる音がした。


 呼吸の仕方を忘れたように、肺が動かない。目の前の景色がぐらりと歪み、机の縁すら曖昧になっていく。


 今まで積み上げてきた時間が、音もなく崩れていく。

 夜を徹して描いた線、何十枚も丸めては捨てた下書き、手に染みついたインクの匂い。

 その全部が、意味を失った。


 努力って、こんなに脆いのかと思った。頑張るという行為が、ただの錯覚に思えた。

 俺は、何をしてきたんだ?

 心の中でそう呟いた声さえ、すぐにどこかへ吸い込まれていった。


 静まり返った編集室の空気が、やけに冷たく感じた。

 世界が少しずつモノクロに染まっていく。


 駅のホームを歩く足も重く、街灯の光はぼやけ、夕日の赤も、風も、すべて遠くに感じられた。


 帰宅すると、部屋の片隅に積まれた漫画の山が、無言の圧力となって彼を迎えた。

 ページをめくると、幼い自分が描いた勇者や魔王が、まだ希望に満ちた目でこちらを見ている。


 しかし手は震え、ペンを握ることはできない。

 過去の失敗、嘲笑、叱責――それらすべてが重くのしかかり、描くことは恐怖となった。


 あのときに、胸に渦巻いていた感情は、ひとつだけ。

 

 自責。

 ただ、申し訳ない。


 お前たちのような、最高に魅力的なキャラクターたちを、俺の力不足ゆえに、輝かせることができなくてごめんなさい。


 でも、だからと言って、俺にはもう何もしてあげられない。

 その事実が、俺の心を這うように蝕むように、貪り散らかす。

 だから。


 ――こんなもの、黒歴史だ。


 そうだ、そういうことにしよう。


 そうして月日が経ち、灰色の街を歩き、会議とメール、書類に埋もれた日々。

 ――本当に、これでよかったのか。



 ◇ ◇ ◇



 「いてて……」

 気がつくと、頭を打ったせいか、目の前がぼんやりと揺れていた。


 意識を取り戻した瞬間、視界に飛び込んできたのは――街全体の崩壊だった。


 瓦礫の山、倒れた家屋、焦げた屋根、煙が立ち上る空。昨日までの景色が、まるで悪夢のように変わっていた。


 空気には、硝煙と破壊の匂いが漂い、遠くで呻くような叫び声が響く。

 そのすべては、門番ヴァルゲートによるものだろう。


 しかし、不思議なことに、自分の周囲だけは無事だった。

 倒れかけた石壁も、砕け散った瓦も、俺の足元には届かない。


 そしてその理由はすぐに理解できた――目の前で、勇者ルナテミスが血まみれになりながら、必死に立っていたのだ。


 鎧はボロボロ、剣も傷だらけ、それでも彼女の瞳は俺を守る光で輝いていた。

 何分、何十分、何時間眠ってしまっていたのかは分からない。


 ただ事実として、膝をつき、息を荒げながらも、ルナテミスは必死に盾となり、瘴気や瓦礫から主人公の領域を守ってくれていたのだった。


 俺がゆっくりと立ち上がろうとした瞬間、ルナテミスは手を掲げ、制止した。

 「うっ……動くでない……今、魔術陣でそちを元の世界に返すから、そこでじっとしていてくれ」

 そう低い声色で呟き、彼女は唇をかすかに噛む。


 手を地面に置き、ひざまずいたまま、左腕の傷口を深く切り裂く。血が勢いよく流れ出し、石畳に滴り落ちる。


 赤い血の一滴一滴が、魔術陣の輪郭となる。

 細く描かれた線が、まるで生きているかのように光を帯び、周囲の瓦礫や煙に反射する。

 血の匂いが濃く漂い、焦げた空気と混ざって、胸を押し潰すような重みを帯びた。


 ルナテミスは唇をかすかに震わせながら、血の魔術陣を完成させる。

 「……くっ……ふぅ……」

 声には痛みと疲労、そして微かな安堵が混じる。


 魔術陣の中心が淡く光り、渦を巻くように輝き出す。

 空気が振動し、周囲の瓦礫が微かに舞い上がる。


 周囲では、まだ戦いが続いている。

 兵士たちは瓦礫をかき分け、アレと死闘を繰り広げている。


 市民たちは恐怖に駆られ、逃げ惑う。子供はころんで泣き叫び、老人は手を取り合いながら必死に避難していた。


 俺は、膝に手をつきながら、震える声で問う。

 「……どうして…………そこまで、してくれるんだ?」


 言葉は震え、途切れ途切れ。胸の奥で、罪悪感が鋭い棘となって突き刺さる。


 「おっっ……俺が……この世界を、こんなふうにしてしまったんだぞ……? 本来なら……殺したいほど憎んでもいいはずなのに……」

 

 ――ここは、自分が描きかけで放置した漫画の世界。

 筆をとめた自分のせいで、この世界は侵食と終焉に、晒されている。

 胸の奥の小さな炎――幼い頃抱いた夢も、もう熱を失いかけている。


 それでも、勇者ルナテミスは自分を守っている。


 血まみれになりながら、傷だらけの鎧で、憎悪すべき対象である、自分の周囲だけを安全な領域に保っている。

 なぜ、そんなことができるのか。

 

 「幸せ、だったから……」

 彼女の震える声が、瓦礫と煙に混ざってかすかに響く。


 俺は息をのむ。胸の奥に、罪悪感と驚き、そしてどうしようもない感動が渦巻く。

 ルナテミスは小さく息をつき、目を遠くに向けたまま語り始めた。


 「そちが描いてくれたこの世界で……我は、たくさん幸せな瞬間を感じた」

 血まみれの鎧に、月の光が反射する。


 「瓦礫の隙間に咲いた小さな花を、子どもが嬉しそうに指で触れたとき。手が汚れ、泥だらけになっても、笑い声がこぼれたとき。


 倒れた兵士を支え、励まし合う仲間の姿を見たとき。

 雨に濡れながらも、逃げ惑う市民が互いの手を取り合って前に進むのを見たとき……」


 ルナテミスは血で汚れた手を胸に当て、かすかに震える声で続ける。

 「終焉が進み、こんなにも不幸なはずの世界で何故か、そのとき我は笑えることができた……」

 

 叫び声と煙の渦の中で、ルナテミスはひとつひとつ思い出す。

 それらは些細で何気ない瞬間だったけれど、幸せだった。

 「こんなにも、幸せを感じられたのは……この世界が、そちの愛で溢れているからだ」


 涙が頬を伝い、血と混ざりながらも、ルナテミスの瞳は強く光っている。

 「たしかに、憎んだこともあった。そちのせいで苦しんだこともあった。

 でも……それでも……これだけは、言わせて欲しい」


 深く息を吸い、焼けた空気をその胸に満たす。血に濡れた手をそっと胸に当て、瞳を俺へと向けた。


 そして彼女は、崩れゆく戦場にただ一輪――誇り高く咲く花のように微笑み、そっと言葉を紡いだ。

 

 「――こんなにも素晴らしい世界に、我を産んでくれて、ありがとう……ッ!」

 

 その瞬間、裂けた雲の狭間から、淡い月光が零れ落ちた。

 血煙に溶けた夜気が銀の靄となり、そこに――儚い虹の幻が浮かぶ。

 

 「…………!」

 ――だが、絶望は訪れる。


 背後で、地面が唸り、瓦礫が軋む音が響く。

 空気がねじれ、風が裂けるように巻き上がった。


 黒い巨影――門番ヴァルゲート――が、瓦礫の間からうねるように姿を現す。

 無数の眼が暗闇で光り、ねじれた腕から振り下ろされる大剣が、大地を引き裂く。


 その吐息が地鳴りのように響き、瓦礫の隙間を揺らし、街全体が軋む。


 勇者ルナテミスは決死の力で、剣を握りなおし俺を守る――その姿は、あまりにも無防備で、あまりにも孤独で。


 巨大な腕が振り下ろされ、瓦礫が宙を舞う。

 砂塵と破片が目に入り、耳をつんざく轟音が胸に響いた。


 剣を握ったルナテミスの手が震え、鎧が軋み、膝がわずかに揺れる。

 あと一歩で……あと一瞬で、命が途切れそうだった。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 俺が最初にペンを握った日のことは、今でも鮮明に覚えている。


 紙の匂い、インクの感触、そして指先に伝わる震え。

 ただ夢中だった。心の奥底から湧き上がる楽しさに、時間の感覚も忘れてしまうほどに。


 誰のためでもなかった。

 褒められたくて描いたわけでもない。


 売れたいとか、評価されたいとか、そんな打算はどこにもなかった。

 ただ、ただ、漫画を描くことが楽しかった――その一点だけで、胸がいっぱいだった。


 なんで忘れてしまっていたんだろう。

 あの純粋な喜びが、いつの間にか灰色の毎日になってしまっていたのだろうか。


 でも、もういい。

 

 今、こうして思い出せたのだから。

 胸の奥の熱い炎が、ゆっくりと、しかし確かに再び灯ったのだから。

 

 描くこと――それ自体が、こんなにも自分を満たしてくれるものだったんだ。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 


 ――ああ、終わった。

 誰もがそう思った瞬間だった。


 風が変わった。

 轟音のあとに訪れた、ありえない静寂。


 粉塵の向こうに、勇者ルナテミスはまだ立っていた。

 膝もつかず、背筋を伸ばし、血に濡れた鎧のまま剣を構えている。


 反対に、門番ヴァルゲートの胸には、ありえないほど深い裂け目が走っていた。

 そこから黒い霧が漏れ、地面にじわりと溶けていく。

 巨体が苦しげに咆哮をあげる。


 体が軽い。

 胸の痛みが消えている。


 折れたはずの剣が、手の中で光を取り戻している。

 そして目の前には、巨大な門番ヴァルゲートの腕が――切り落とされて地に転がっていた。


 ルナテミスは何が起きたのか分からず、呆然と立ち尽くした。

 自分がやったのか? いや、そんな力はもう残っていなかったはずだ。

 それでも確かに、門番ヴァルゲートの咆哮とともに黒い血が飛び散っている。


 「な、なんなのだ……今の……? 我は……どうして……」

 ルナテミスは自分の両手を見つめ、震える声で呟く。


 血に濡れていたはずの鎧は、いつのまにか光の膜に包まれ傷一つない。

 息も荒くない。力があふれてくる。


 視線の端、戦場の塵煙の向こうに彼――田島修一が立っていた。

 その手には、どこか見覚えのある懐かしい黒いペンが握られている。


 ペン先から立ちのぼる光は、もはやインクの色ではなかった。


 白金のきらめきが渦を巻き、空気そのものに文字が刻まれていた。

 まるで神話の中から抜け出した“創造の筆”。


 ルナテミスは、自らから湧き出す歓喜の源泉に打ちひしがれながら、

 「創造主様っ……!」

 と口から言葉を発する。

 

 彼女の心には、驚きはもうすでになく、胸の奥の希望でいっぱいだった。

 (創造主様なのだから、これぐらい当然か……)


 田島修一の目は、かつての自分を取り戻したようにまっすぐで、どこか少年のような光を宿していた。

 彼はゆっくりとルナテミスに向かって口を開いた。


 「――なあ、思い出したんだ」

 かすれた声が、戦場の静寂に響く。

 「俺、漫画を描くのがすげー好きだったんだなってさ」


 黒いペンから再び神代の光が滲み出す。

 「――理論構築――」

 

 彼はそう、宣言した。

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