第3話 終焉の穴の門番
夜の崩れかけた大通りの城下町。灰色の空から吹きつける風は冷たく、瓦礫の間をくぐるたびに砂埃が舞い上がる。
だが、その荒廃した空間にも、ひとつだけ温かい光があった。
広場の中央、簡易のテーブルが並び、鍋から白い湯気が立ち上る。
勇者ルナテミスと月影白夜騎士団の兵士たちは腕まくりをしてスープをかき混ぜ、子どもたちに器を手渡していた。香ばしい匂いが漂い、冷え切った体を少しずつ包んでいく。
俺もそっと鍋に手を添え、見よう見まねでスープをよそった。手はぎこちなく、腕はまだ震えている。
だが、その手の動きだけで、俺がこの世界に少しだけ居場所を持ったことを感じた。
ふと、視線を上げる。崩れた石垣の陰から、薄緑の小さな影がじっと鍋を見つめていた。
魔族のゴブリンだ。
尖った耳に細い牙、光の届かない瞳が空腹で光っている。ルナテミスは一瞬剣に手をかけたが、すぐに下ろす。
「……腹が減っているのだろう? たらふく食すがよい」
勇者ルナテミスが笑顔で差し出した器に、ゴブリンは警戒しながらも手を伸ばした。指先が震え、初めて口に運ぶスープの熱さに驚いたようだった。俺はその姿を見て、微かに微笑んだ。
――そうだ。彼女はそういうやつだ。
配膳の役目を終え、長椅子に腰かけた俺は小さく息をついていた。
「おじさん、見ない顔ですね……」
近くにいた子どもたちや兵士たちが、興味本位に俺を観察する。
「旅人か? それとも……あんた、どこの国の人間だ?」
俺は笑ってごまかすしかなかった。
ここで「俺は創造主だ」と宣言したところで、それらしいことは何もできない。だってただのおっさんだし。
だから、期待させないようにぬか喜びをさせないように、曖昧な反応をするしかないのだ。
すると背後から、艶やかな声がかかった。
「いい男ねぇ……あんた」
振り返ると、薄布をまとった娼婦らしき女が笑って立っている。長い黒髪が風に揺れ、目はどこか哀しげだが確かに生きている。
おいおい、俺が描こうとしていたのは少年漫画なはずのに、なぜこんなにもえっちなお姉さんが!
「暖かい部屋……欲しいかしら?」
ごくりっ。
俺はこれにどう答えればよいのだ。
この世界は俺が描いた漫画の世界で、ここに集まってる人は全員、俺の子どもみたいなものだ。
だとしたら、これに応えてしまっては色々とまずいのでは。
そんなしょうもないことを考えていると、すぐ背後にルナテミスの影が現れる。
「彼は……忙しいのだっ!」
短く、鋭く、だが微かに嫉妬を滲ませる声。ルナテミスの手が俺の腕を強引にと握った。
顔はほんのり赤く、戦場で見せる強い瞳とは違う感情が揺れる。
俺は心の奥がきゅっと締め付けられるのを感じた。
「創造主様は、あのような豊満な身体を持つ女子が好みなのか」
と、城下町から遠ざかりつつ、自らの貧相な胸に手を当てながらそんなことを口にする。
好きです!
馬鹿正直にそんなことを言えるはずがない。
なぜなら今のルナテミスから怒りのオーラがぷんぷん漂っているからだ。
だから、彼女をおだてつつ教えてあげる。
「ルナテミス、君はこの世界においての主人公であり、俺が一番大事にしている人物なんだ。
……そんな君の胸は、貧しいと来た。これはもう、俺が貧乳が大好きなのは自明ではないかね」
嘘だ。巨乳の方が好きに決まっている。
だが、嘘をついた甲斐があったらしい。彼女から笑みが零れる。
「ふっ…そうだよな! 我の貧乳こそ至高であるっ!!」
ガハハハッと笑い飛ばす彼女。
勇者ルナテミスって、意外にも貧乳を気にしていたんだなとか思いつつ、彼女に質問を投げかける。
「ルナテミス、こんな辺鄙な場所に連れてきて何の用だ。」
「創造主様に知っておいてもらいたいのだ。――この世界の現状を」
◇ ◇ ◇
焚き火の橙色の光に照らされ、勇者ルナテミスは低く、しかし確かな声で、この世界のことを語り始める。
「……今、我らが立つこの地は〈グレイス・ヴァルム王国〉。創造主様――そちが描きし、“世界”の舞台のひとつ」
低く、けれど確かな声。
その響きには、炎のはぜる音よりも重い現実が宿っていた。
「だがな……今では、城も森も町並みも、あちこちが崩れておる。
かつてこの国は、陽光にきらめく白亜の城壁と、七色の旗が風に踊る美しき都であった。
朝になれば鐘が鳴り、市場には笑い声が溢れ、子らが駆けていったものだ。
――だが今はどうだ。
道は裂け、石畳は沈み、風に乗るのは笑いではなく、砂と灰の匂いばかりよ」
ルナテミスの声には、かつての誇りと、失われたものへの慟哭が混ざっていた。
炎のゆらめきが、その瞳に映る瓦礫の影を赤く染めた。 ルナテミスは焚き火を見つめたまま、唇の端を少しだけ吊り上げた。
その笑みは、嘲笑でいて、どこか寂しげでもあった。
俺は無言で頷いた。
地面に広げた古い羊皮紙――その地図の輪郭や国名、街道の位置まで、かつて俺がノートに描いた設定とまったく同じだった。
それが、いま現実として存在している。崩れ落ちかけの、壊れゆく世界として。
「……それもこれも、そちが世界の創造を止めたせいで生まれた、“終焉の穴”のせいでな」
「終焉の穴……?」
思わず問い返す。
ルナテミスは焚き火の炎を指でつまむように見つめ、ぼそりと呟いた。
「風船をイメージしてみるんだ。穴があいてしまうとそこから空気が漏れ、萎んでしまう。
それと同様に、この世界が長年描かれないまま放置されたせいで、いくつかの大きな穴が空いた。
そこから、終焉が広がり、世界そのものをしぼませているのだ。
それらすべてを修復することで、なんとかこの世界は安定を保つことになるであろう」
その声には悲哀と決意が入り混じり、俺の胸をぎゅっと締めつける。
心の奥で、ずっと避けてきた現実――描きかけのまま放置した自分自身の罪と責任――が、あらためて迫ってくるのを感じる。
「よいか、この世界には、四つの大規模な”終焉の穴”が確認されている。」
ルナテミスは一呼吸置き、少し柔らかく、しかし芯の通った声で言った。
「まずひとつめ、【北の凍てついた森】。
北の凍てついた森は、かつて豊かな針葉樹と野生の獣で満ちていた。
しかし今は、氷の霧と死の静寂に覆われ、並みの人は近寄ることさえ困難だ。生き物も、植物も、すべてが痩せ細り、森そのものが腐敗しておる」
俺は無言で聞き入った。
「そして、【東の海】。
東の海を呑み込む渦は、潮の流れを狂わせ、港町を飲み込んだ。
波は逆巻き、船も魚も戻らず、まるで海そのものが怒り狂っているようだ」
ルナテミスの声に緊張が混じる。
「続いて、【西の地割れ】。
西の地割れは、大地そのものが裂け、人も家が国が、落下した。
その壊滅的状況のせいで、人々は今もなお、死に怯え続けていることだろう」
そして、彼女は低く息を吐く。
「そして最後に……南に位置するグレイス・ヴァルム王国。今、我らがいる国」
「……もしかして、あの空に広がる穴のことか」
俺は、遥か高い空を指し、この世界に来たときから自然と目を逸らした”それ”について聞いてみる。
「……そうだ。アレが、終焉の穴だ――」
少し苦悶の表情を垣間見せながら、彼女は答える。
何か嫌な思い出でもあるらしい。
俺はもう一度、あの穴を凝視してみる。
――そこだけ、世界が存在していなかった。
風が止まり、音が消え、光さえも届かない。
空間の縁は静かに波打ち、見えない力が、現実という膜を裏返しているようだった。
覗き込むほどに、そこに「何もない」ことがはっきりと分かる。
まるで神の手でページを破り取られたかのように、地平が途切れ、虚無がむき出しになっていた。
そしてそれは、常に蠢き、この世界を今にも、終焉へと誘わんとしていた。
……何だか気分が悪くなってきた。
とはいえ、ここまでのルナテミスの言っていること自体は理解できた。
だが、ひとつ決定的に不明瞭な問題がある。
俺は眉をひそめ、少し躊躇しながら問いかけた。
「……この世界の状況は、ある程度分かったつもりだが、なら俺はどうすればいいんだ?
現実世界――分かりやすく言うなら、俺が住んでいる世界で、再び漫画を描き始めれば……世界を創造し始めれば、終焉の穴は塞がるのか?」
ルナテミスは、静かに首を振る。
「それは無理だな」
彼女はそう続け、俺の考えの誤りを指摘するような質問を投げかける。
「ならば問うが、創造主様。そちが創造したこの世界に、“終焉の穴”という概念を、一滴でも垂らしたか?」
「……いいや」
俺が、そう短く言い切った言葉が、周囲の静寂に呑まれ、やがては消える。
ルナテミスは穏やかに、しかし断固とした声で告げる。
「つまりはあれは、人為的なものではなく、長年見捨てられたことによる偶然、はたまた必然の産物なのだ。
世界の外から如何なる処置を試みても、本来ないはずのものをどうにもできん。
つまり、この世界……創造主様からすれば、内からの処置が必須なのだ」
彼女からすれば、分かりやすい説明なのだろうが、俺はいまいち理解できておらず、顔を強張らせてしまう。
だが、その表情を見かねたルナテミスが、例えを用いて言いたいことのイメージを伝える。
「創造主様が今行おうとしていることは、臓腑の病を治すために、皮膚にクリームを塗ろうとしているようなものなのだ」
その言葉を聞いた瞬間、俺は目を見開いた。
胸の奥で、ぎゅ、と固まっていたものがゆっくり解ける。
だがそれとともに、一度は火の粉も散らなくなった疑問が、再燃する。
「じゃあ結局のところ、どうやってその終焉の穴ってやつを修復すればいいんだ」
俺は、たしかにこの世界の創造主ではあるが、その実、ただ一心不乱に漫画を描いていただけに過ぎない。
絵と文字しか描けない男に、一体どうやって世界を救えばよいのだ。そんな想いを込め、彼女に尋ねる。
この深刻な問題とは裏腹に彼女は、
「何を言っているのだ! そちは創造主様なのだから、なんでもできるはずではないか!
”すーぱー穴修復ビーム”でも撃っちゃえば、イチコロのはずではないのか!」
と鼻をほじりながら、他人事かのように答えやがる。
「そんなもんできるわけないだろ!」
そう、反射的に俺はそんなことを口走る。
だが、すぐさま彼女の心が、容易に察せてしまう。
――そうか。
この子からすれば、俺は神様みたいなもんなんだもんな。そりゃこういう反応にもなる。
「そんなことよりも……」
そう彼女は続け、この旅の最難関であろう存在を挙げる。
「やはり、
「
「うむ、終焉の穴に近づこうとすると無から出現する化外がいるのだ。
以前、月影白夜騎士団全勢力をあげて、ヤツに挑んだが、騎士団は半壊。
あの戦いで得たものといえば、あの穴は、この世界の住人ではどうにもできないということ」
そうして話はひと段落つき、俺たちはただ火に照らされている。
焚き火の炎がパチリと弾け、夜の静寂を裂いた。冷たい風が石畳をかすめ、火の匂いと湿った土の匂いが入り混じる。
――微かな異変。
風が、どこからともなく止まり、焚き火の炎が一瞬、揺らめく。
その瞬間、空気がねじれるように冷たくなる。周囲の音が遠くなる。鳥の声も、遠くの川のせせらぎも、すべてが消えたように錯覚した。
「……?」
俺は振り向いた。だが、何もない。
だが、足元の石畳が微かに振動した。小さな亀裂が走るように見え、闇の奥から……音もなく、何かがゆっくりと浮かび上がる。
それは影ではなかった。
人でも、動物でもない、ねじれた四肢を持つ異形の存在――――――が、闇の中で姿を結び始めたのだ。
その背丈は城壁を軽く超え、天井の塔さえも覆い隠すかのようにそびえ立つ。
ねじれた角は空を裂き、背中の板状の翼は城下町の通りを覆い尽くす。無数の目がぎらつき、瞬きするたびに世界が歪むように見える。
その両腕には――黒鉄と怨嗟を錬り合わせたかのような巨剣が握られている。
口が裂け、そこから漏れる唸り声は低く、地を揺るがすように響き、心臓が痛くなる。吐息は冷たい霧となり、周囲の火の光を押し消していく。
瓦礫の埃が舞い上がり、視界は白い霧と影で満ち、俺の足元の石畳はまるで消えそうだった。
「
勇者ルナテミスは発狂するようにして我を失っていた。
さりとて、勇者。
「創造主様! 後ろへ!」
ルナテミスはそう叫ぶと、すぐさま剣を握りしめ、尻もちをついた俺の前に立ちはだかった。
炎の光に反射する銀の鎧は、瘴気の中でもひときわ明るく光る。
その巨体がぐらりと揺れたかと思うと、闇そのものをまとった剣を振りかぶり――世界を断ち割るかのように振り下ろしてきた。
瞬間、空気が悲鳴を上げる。
衝撃波が地を裂き、瓦礫が粉々に砕け、炎のような黒い圧力が奔る。
ルナテミスの身体が閃光となって跳ねmその手に宿す聖剣が真白く輝き、光と闇が交錯する――。
「はあああああッ!!!」
金属の悲鳴が、空を裂いた。
巨剣と聖剣がぶつかり合い、衝撃が火花となって迸る。
衝突の瞬間、地面が波打ち、周囲の瓦礫が吹き飛び、ルナテミスの足元の石畳が砕けて沈む。
だが俺は、膝を震わせながら、ただその光景を見上げるしかなかった。
アレを視界に入れるだけで、胸の奥に沈めていた“痛み”が、次々と泡のように浮かび上がってくるのだ。
——小学生のころ、初めて描いたヒーロー漫画をクラスメイトに見せたら、「絵がヘタすぎ」と笑われた日。
——中学で文化祭のポスター用に描いた漫画を先生に「もっとまともに描け」と突き返された日。
——編集者に初めて持ち込んだ原稿で、「才能ゼロ」「構図も話もめちゃくちゃ」と封筒を叩き返された日。
——自分が描いた漫画のネームを破り捨て、
——大事にしていたキャラクターを馬鹿にされ、泣きながら床に突っ伏した夜。
「……あ、あぁ……!」
本能的に理解した。アレは……
ルナテミスは一歩、二歩と前に出る。
剣先から発せられる光が、瘴気に吸い込まれそうになる世界に一本の光の筋を描く。
「我が……そちを必ずや、お護り致す!」
ルナテミスの声が裂けるように響く。
腕が痛み、体が揺さぶられる。だが、ルナテミスは決して下がらない。全身で圧倒的な力に抗い、剣を振るたびに瘴気が切り裂かれ、黒い影が煙のように散る。
俺の視界の端で、瓦礫が砕ける音、金属がぶつかる音、
そして何かがゆっくりと、俺の頭上に降ってくる。
「……逃げろ……!」
ルナテミスが叫ぶが、言葉は耳に届かず、全身の感覚が支配されたかのように、身動きができなくなる。
「うっ……!」
声も出せず、恐怖で体が硬直する。
ルナテミスが叫び、剣を振り上げる。
焚き火の明かりが揺らめき、地面の石が歪むように見える。
そして、世界の色すべてが暗く沈む中、俺の意識は闇に飲み込まれ、深い無の中へと落ちていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます