第一章 温かな日常

春の光が、レースのカーテン越しにやわらかく落ちていた。

鍋の湯が小さく跳ね、塩が溶ける音まで聞こえそうだ。


「はい、パスタ投入。勇者、行ってらっしゃい」

「いってらっしゃいって言われても戻ってくるけどね」


隣のフライパンではオリーブ油が薄く光り、玉ねぎ、ソーセージ、ピーマン。

香りが重なるたび、部屋の空気が少しずつ甘くなる。


「亮介、玉ねぎは色じゃなくて“音”で見るんだよ」

「音で?」

「そう、じゅわ〜って音が小さくなったら焦げる合図。……焦がさないようにね」


「へいへい、先生!」


「誰が先生よ」

美咲は笑ってフライパンを覗き込んだ。

ソースの甘い香りがふたりの間にふわりと漂い、まるでその香りが“日常”そのもののように部屋を満たしていく。


「透明になる時ね、じゅわって高い音から、すっと落ち着くの。今、いい声してる」

「玉ねぎの声聞ける人、初めて見た!」


ケチャップを一気に入れようとする手を、美咲がそっと止める。

「どぼん禁止。トマトペースト少し、ケチャップ少し、白ワイン少し。“少しの三重奏”」

「指揮者、了解」


火を弱め、バターをひとかけ。ソースが丸くなる。

タイマーが鳴り、パスタが湯の底から顔を出す。

「表示の一分前で上げて——はい、“再会”」

茹で汁をスプーン一杯だけ加えると、とろみがやさしく麺に絡む。


「胡椒、上から“雨”。止んだら出来上がり」

「天気予報までできる料理人って…」


皿に移すと、赤いソースが光を受けてきらりと揺れた。

テーブルに座り、フォークが皿を小さく鳴らす。


「いただきます」


亮介は一口食べて、少しだけ不安そうに美咲を見る。

「……味、どう?」


「うん、やさしい。今日の光みたい」

そう言ってから、いたずらっぽく目を細める。

窓の外を抜けた風に若葉が揺れ、香りと笑い声が静かに混ざり合った。


「ねぇ、この前のお花見、楽しかったね」

「おぉ、あの公園?俺が焼きそば食べすぎたやつな」

「来年はさ、桜見ながらお弁当食べよう」

「お弁当担当は?」

「二人」

「俺、焼きそば多め担当で」

「それ、お弁当じゃなくて屋台」


からかい合いのあとに、短い沈黙。

光がテーブルを移動して、二人の手に触れる。



「——ね、亮介」

「ん?」

「この味、覚えておいて」

「もう覚えた」


そう言って笑うと、美咲も同じように笑った。

供されたのは、レシピじゃなく“記憶になる昼下がり”

春の匂いと一緒に、皿の上でそっと湯気になった。



ーー

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