第2話 想いを結ぶしおり


誰かを想う気持ちは、消えることなく漂い続ける。

それが、灯影堂へ導く“光の糸”になるのかもしれない。


今宵もまた、ひとつの想いが扉を叩く――。



プロローグ


夜の街は、思いのほか静かだった。

昼間は人で賑わう商店街も、今はシャッターが下り、街灯の光がアスファルトに淡い影を落としている。

風が吹くたび、遠くの電線がかすかに揺れ、かちりと乾いた音を立てた。


亮介はひときわ冷たい風に身を縮め、ポケットへ手を差し入れる。

指先に触れたのは、滑らかな革の感触だった。


──しおり

美咲がいつも大切にしていたもの。


確かカバンに入れておいたはずなのに……なぜここに?

問いかけた瞬間、しおりがかすかに温もりを帯びたような気がした。


そのときだった。

路地の先に、一匹の黒猫が立っていた。

月明かりを受けて瞳が青白く光り、まるで亮介を見透かすように揺らめいている。


「……猫?」


男──亮介は思わず足を止めた。


髪は少し伸びすぎて、前髪が目にかかり、疲れの色が濃く浮かぶ顔立ち。背は高いが姿勢はどこか力なく、今にも崩れてしまいそうに見える。


黒猫はくるりと背を向け、ゆっくりと歩き出す。まるで「ついて来い」と告げるように。

導かれるようにして、亮介はその後を追った。


細い路地を抜けた先に、見慣れない建物が佇んでいた。

扉には、真鍮の取っ手がほのかに光を返している。

入り口を照らす小さなランプ。

窓の奥、アンティークのランプシェードを透かして、静かに店内を包んでいた。

看板には小さく


── 灯影堂 の文字。


黒猫は扉の前で立ち止まり、ちらりと亮介を見上げた。

その瞳に射抜かれた瞬間、亮介の喉がかすかに動く。

気づけば、手は勝手に扉へと伸びていた。

軋む音とともに扉が開く。


古い木の床からはほのかな甘い香りが漂う。

壁の棚には時の流れを刻んだ本とアンティークのカップが静かに並んでいた。

奥から流れる小さなジャズの調べが、静かな店内を温かく満たしていた。

その音に溶けるように、穏やかな低い声が響く。


「いらっしゃい」


カウンターの奥に、ひとりの男が立っていた。

長い髪を後ろでひとつに束ね、深い藍色のシャツの袖をゆったりと折り返している。

整った顔立ちに浮かぶ笑みは柔らかく、それでいて底の見えない落ち着きを湛えていた。

光に照らされたその姿は、まるで時の流れから切り離された存在のようだった。


その足元には──先ほどの黒猫が座っていた。

尾をゆらりと揺らし、まるで「ここがお前の席だ」と告げるように、亮介を見上げている。


「……さっきの猫……」


思わず呟くと、男は微笑んだ。


「うちの店の案内役でね。名前はミケ。

……ちょっと不思議な子なんだ」


亮介は言葉を失い、ただ頷いた。

不思議と──ここでは何も問われない気がした。


男──柊朔也は、ゆっくりとカウンター越しに紅茶を差し出す。


「あなたに必要な一杯です。どうぞ」


湯気の立ちのぼるカップから、懐かしい香りが広がった。

胸の奥がざわつく。


──美咲が好きだった、あの紅茶の香り。


そっと口をつけた瞬間、視界が淡く揺らぐ。

そのとき、ポケットの中のしおりがかすかに震え、やがて光を帯びはじめた。

淡い輝きが糸のようにカウンターへと伸びていく。


いつの間にかそこには古い分厚い本が置かれていた。

革の表紙には、小さく──灯影録。


亮介は息を呑む。

その光に導かれるように、ゆっくりと表紙を開いた。

ページのあいだから光の粒が溢れ、やがて目の前にひとつの姿を結ぶ。


「……美咲……?」


声をかけても彼女は答えなかった。

ただ、優しく微笑み、唇がかすかに動く。


──亮介、ちゃんとご飯食べてる? 私がいなくなってから……


その言葉は、耳ではなく胸の奥に染み込むように響いた。


姿も、声も、そのぬくもりも全て

──亮介が“あの日からずっと渇望”してたものだった。


胸が熱くなり、夢中で手を伸ばそうとした瞬間──光が視界を覆う。

美咲の姿も声も静かに溶けていった。


残ったのは温かな香りと、胸を締めつけるほどの想いだけ。

そして──気づけば、光のあふれるキッチンに立っていた。

あの日々の温もりが、今も胸の奥で息づいている。


それは、彼がまだ美咲と過ごしていた頃の記憶──。



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