寝ている間に状況が一変していました。でも、目の前にはいまがある。

春野 セイ

第1話 大好きだよ。

 


 どこから歯車がくるってしまったのだろう。

 いや、それよりも前はどうやっていたのかも分からなくなってしまった。


「今日も先に寝てていいよ」


 朝、玄関で靴を履いていた立木たちき穂高ほだかが出かける前に言った。

 それを聞いて夕月ゆうづき春希はるきは口を膨らませた。

 また、残業? という言葉を呑み込む。本当は残業なんかしないでまっすぐ帰って来て欲しい。でも言えない。彼は仕事をしているから。


「四月、五月は特に忙しいんだ。ゴールデンウイークには休みがもらえるから、それまでの我慢だよ」

「うん……」


 春希は小さく頷くと、穂高は目を逸らすとそそくさと出て行った。


「あっ、穂高……」


 そう言っている間にもドアが閉まる。


「行ってらっしゃい……」


 誰もいないドアに向かって一人で呟く。


 何もなくていい。ただ、穂高と一緒に穏やかに暮らせる。一緒に笑いあって、小さな幸せがずっと続けばそれでいい。

 春希の願いは穂高と暮らしていく事だった。


 春希はため息をついてリビングに戻ると掃除をしようとカーペットに掃除機をかけ始めた。

 春希の仕事はフリーのイラストレーターだ。雑誌の挿絵やイラストなど、一つひとつは小さな仕事でも心を込めて一生懸命取り組んで収入を得ている。

 今週はほとんどの仕事がひと段落ついたので、今取り組んでいる絵本を描いていた。

 自分は好きな仕事をしているが、同棲相手の穂高はこのところ仕事に追われていて、ろくに会話もできない。

 自分がわがままを言っている事は分かっていた。春希は今年で二十三歳になるのだし、三つ年上の彼は会社勤めで忙しいのは知っている。


 穂高と知り合ったのは、春希が大学生の時の短期アルバイトで雇われている時だった。春希は周りのことは無頓着で、とにかく絵を描くことが好きでアルバイトも社会勉強のつもりだった。

 デパートで、文房具展示会が二週間行われていた時だった。春希はアルバイト最後の日で、帰る間際に穂高から告白された。


 初めて見た時から君しか目に入らなくて困った、と彼は言った。


 突然告白されて驚いたが、友人が同性と付き合っているので、そういう事に抵抗は全くなかった。

 恥ずかしそうな彼を見て、アルバイト中、優しかったりよく声をかけてくれたりした事を思いだす。意識されていたんだと思ってドキッとした。

 アルバイトの女子たちからはけっこう人気があって、長身で細身の彼は端正な顔をしていた。声は優しくて、いつも笑っていた印象がある。


 彼はどんな人なんだろう、そう思っていた時には、僕でよかったら、と承諾していた。

 穂高はまめな男で春希を大切にしてくれた。いくら鈍感な春希でも惚れるには時間はかからなかった。

 春希は大学生の頃から、SNSやコミックマーケットで売り込み、自分の描いた絵を持ち歩いて営業をしたり、ホームページを立ち上げたりとできることをしながら、絵を描き続けていた。

 少しずつイラストの幅を広げていた春希は、知り合いからも仕事をもらい、ぽつぽつと仕事量が増えて今のような状況に至っている。

 穂高は、春希の時間をいつも優先してくれた。その間に同棲の話を持ちかけられた。

 大学を卒業と同時に一緒に暮らすようになったが、最近はすれ違ってばかりだ。

 ため息をつきそうになってその考えを振り払う。

 掃除をし終えると、絵本の色付けをしていこうと仕事部屋に入った。


 机の上には穂高の写真がある。

 優しい目で春希を見つめている。

 春希はそれを手に取った。


「大好きだよ」


 写真に向かって言うと、自分を元気付けるように春希は机に向かった。

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