第9話 軽井沢にて

 「遠いところをようこそおいでくださいました」


 目の前にいる初老の女性に男は静かに頭を下げた。ここは軽井沢でも老舗と呼ばれるレストラン。女性は、そのオーナーで、生まれた時から軽井沢で暮らしている、ということだった。一目で人当たりの良さが伝わる彼女こそ、男が会う約束を取り付けた人物だ。


 「こちらこそ、お時間をいただきありがとうございます」

 「いえいえ。別荘地についての記事をお書きになるんでしょう? 私がお話できるのは氷室さん達のことくらいですが……」

 「十分です。氷室家がどんな方々だったのか、少しだけお伺いできたら、と思っています」


男の声は落ち着いていたが、その瞳の奥には探るような光があった。


 「と言っても、私、たまたま実家が氷室さんの別荘の近くってだけでそこまで知ってる訳では無いんです」


 申し訳なさそうに眉を下げるオーナーは、ふと壁に目をやる。男も釣られて視線を移すと、そこには古い写真が飾られていた。


 中央にいるのは、今よりも若い――三十代半ばに見える氷室雅興。その右隣にいる、やや神経質な表情を浮かべた妻の玲子。雅興と玲子の前にいる少年は、玲彌だろう――氷室家の横にいて微笑んでいる二人は、今目の前にいるオーナーと、その夫かもしれない。


 「主人が先日他界しましてね。あの写真はちょうど二十年ほど前かしら……氷室さんは、別荘に避暑に見えるとよく私共のレストランにお越しくださったんですよ。雅興さんが、子牛のフィレステーキを気に入ってくださって……」

 「そうだったんですか……」

 「ごめんなさいね、私共のことなんて記事に関係ないですわね……でも、あの頃元気だった主人は、氷室さんからレストランの予約が入ると、とても張り切っていたんです。朝から仕込みをしてね……奥様は、いつ見てもお若くて美しくて。玲彌君――もう、“君”って歳じゃありませんわね。あの頃は小さいのにもう聡明で受け応えもはっきりしていて……素敵なご家族でしたわ――」


 オーナーは、当時の氷室家の様子を思い浮かべながら懐かしそうに語っていた。ただ、と言いかけて、その表情が曇る。


 「ある年だけは、忙しくて軽井沢に来れない、とご丁寧に連絡がありましてね。次の年からはまたご贔屓にしていただけたんですが……二年の間に玲彌君がすっかり大人びてしまって。もう、今の、秘書官として時々メディアに登場するあの雰囲気が出来上がっていましたわ……。本当、怖いくらい」


 オーナーが言い淀んだその話に、何かあるのかもしれない――男は、じっとその表情を見つめた。視線に気がついたオーナーは、迷うように目を伏せ、けれど小さく息を吐いて、口を開く。


 「それからも、毎年別荘地には、氷室雅興さん、玲子さん、玲彌君が見えていたんです――そう、毎年。ですが……私も長いこと知らなかったんです。雅興さんに“娘さん”がいらしたって」


  氷室雅興が初入閣した十年前のことだったという。ある経済誌で組まれた特集の中で、オーナーは初めて雅興の“娘”の存在を知った。

 

 「娘さんの歳を見て、ああ――来なかった年に生まれた子だったんだな、って納得したんです――でも、生まれてから何年も経っているのに、軽井沢でその姿を見たことが無かったんです」

 「ご実家は氷室家別荘の近くだと伺いましたが、そちらにも見えていなかったんですか?」

 「実家に帰った時、年老いた母はさすがに分からないかもと思って、兄夫婦に聞いたんです。『氷室さんの家に、小さい娘さんがいるらしいけど、知ってる?』って。ですが――」


 オーナーは、グラスに注いだ水を一口、静かに含んだ。


 「ですが、兄夫婦も首を捻るんです。知らない、って――」


 沈黙が落ちた。

 “娘”とは、氷室美雨のことだ。

 彼女は氷室家毎年恒例の避暑に、一度も連れてこられたことがない。

 ほんの小さな頃からずっと――そこに、異質さがあった。


 

 「ごめんなさい。こんなこと、記事に書けませんわね――」


 重い空気を振り払うように、オーナーが明るく声を上げる。男は否定も肯定もできず、ただ静かに頷くだけにとどめた。


 「記事にはできませんが、氷室家の様子から、別荘の醸し出す“空気”を描くことはできますので」

 「あら、そうしたら――かの名声を博する氷室雅興大臣の別荘が、“伏魔殿”みたいになってしまいますわね」

 


 オーナーが冗談めかして笑う。

 だが、男にとってそれは、冗談ではなかった。


 「いえね、氷室さんの別荘――伏魔殿とは掛け離れた、とても良い場所なんですのよ。童話の中の、森の奥のお屋敷っていう雰囲気で……この辺りで一番心地いい風が吹き抜けて、小鳥や小動物が自然と寄ってきて……あっ――」


 オーナーが小さく声を上げた。何かを思い出したように、表情が変わる。


 「どうされたんですか?」

 「いえ……氷室家の娘さんで、思い出したことがありまして……。先ほどお話ししたあと、兄ともその話になったんです」

 「ああ、ご実家にお住まいの……」

 「はい。兄が、“ミオちゃん”はどうしてるのかな、って――」

 「……ミオ?」


 男が聞き返すと、オーナーは少し迷いながらも、「また話が脱線してしまうんですが……」と続けた。


 「私たちが若くて、雅興さんのお父様の代だった頃のことなんですが――

お父様、お母様、雅興さん、そしてもうお一人。氷室家の娘さんが毎年夏になると避暑にいらしていたんです。雅興さんの妹さんで、美織さんという方が……」

 「氷室美織さん……」


 男はその名前を口の中で呟いた。雅興について調べる過程で、その名だけは知っていた。

 氷室美織――雅興より十歳ほど年下の妹。才色兼備と謳われながらも、若くして亡くなっている。

 その“亡くなった”という事実を告げるべきか逡巡しているうちに、オーナーが口を開いた。


 「美織さん――私たちは“ミオちゃん”と呼んでいました。

身体が弱くて、別荘に来てもあまり外には出られなかったんですが、性格はとても活発でしてね……別荘の周りに来る小鳥をよく見たいからって巣箱を取り付けようとしたり、リスやウサギを追いかけて行ってしまったり……そんな子でしたわ。だから、お屋敷を連想すると、美織さんの姿が同時に思い浮かんでしまいますの。雅興さんが困ったなぁと笑いながら、よく可愛がっていた姿も同時に。本当に、お人形さんみたいに可愛い子でしたの。

“美少女”という言葉は、あの子のためにあるんじゃないかと思っていました。肌が白くて、目が大きくて……真っ黒な髪が肩をすぎてから柔らかく波打っていて……本人はよく、『まっすぐな髪が良かった!』なんて不満を漏らしていましたけどね……」


 男は黙って聞いていた。

 ――容姿の描写が、あまりにも、知っている誰かを彷彿とさせる。

 考えるより先に、口が開いた。


 「……美織さんの写真、残っていたりしませんか?」


 その言葉に、オーナーが目を瞬かせた。

 

 「写真……あっ、少しお待ちくださいね」


 オーナーは厨房の奥――おそらく住居スペースだろう――へ足早に向かい、すぐに戻ってきた。

 手には、一枚の古い写真が握られている。


 「たまたま写真の整理をしていて見つけたんです。懐かしくて、束のいちばん上に置いてありましたの」


 許可をもらい、男は写真を手に取った。

 若い女性――これはオーナーだろう。隣には彼女によく似た年上の男性。話からすると兄だ。

 そして、若き日の氷室雅興。その隣に立つ一人の少女を見て、男は息を呑んだ。


 「この娘が……氷室美織……」


 腰まで伸びる黒髪は柔らかく波打ち、肌は雪のように白い。

大きな瞳、細い鼻梁、かすかに微笑む唇。華奢な肩と首――

そのすべてが、記憶の中の“彼女”と重なった。


 (氷室美雨――)


 写真の中の氷室美織は、氷室美雨と――瓜二つだった。

 オーナーは懐かしそうに笑ったあと、少し間を置いて息をついた。

 

 「……そういえば、ミオちゃんを見かけなくなってから、ずいぶん経ちますわね」

 「見かけなくなってから?」

 「ええ。ある年を境に、雅興さんご一家が別荘にいらしても、ミオちゃん――美織さんだけお見えにならなくなって。体調が優れないのかと思っていましたけれど……」

 

 そこで、オーナーは少し思い出すように目を伏せた。


 「まだお若いですし……どこかでお元気にされているなら良いんですけどね……」


 男は答えられなかった。

 オーナーは気持ちを切り替えるように顔を上げ、微笑むと話を続けた。

 

 「そういえば、私は行ったことはないんですが、軽井沢に“氷室家の墓地”があるのをご存じですか?

 別荘の記事に使えるかは分かりませんが、氷室家の方々は避暑地としてだけでなく、病気療養の地としても軽井沢を利用されていたようで……特にこの地を愛された方は、こちらで眠ることを希望される方が多いそうです。

 そのお墓は、別荘地から少し離れた山間にあるらしいですよ。とても見晴らしの良い場所だとか。一度、足を運んでみてはいかがですか?」

 「……墓地が、軽井沢にも」

 「ええ。あの辺りは普段、観光の方はまず通りませんけどね」


 *


 そこは観光名所から少し離れた山の中腹にあった。遠くで小さく聞こえる水のせせらぎ、風が柔らかく揺らす木々の葉擦れ――そんな音に囲まれた静かな霊園、その一画に、氷室家の墓地が存在していた。埋葬されている人間の数は少ない。ただ、定期的に清掃の手が入っているのか、墓域は美しく整えられている。供花も、つい数日前に活けられたような瑞々しさだった――その土地の片隅、木立の陰に、ひっそりと佇む小さな墓石を男は見つけた。戒名も何もなく、目をよく凝らすと、“氷室美織”とだけ名前が彫られているのが分かる。最低限の清掃は行われているのか、その周りに枯葉や蜘蛛の巣などは確認できなかったが、それでも他の墓とは違う“寂しさ”がそこにはあった。


 (氷室美織――氷室雅興が大切にしていた妹……どうして彼女がここに……?)


 美織が軽井沢を愛していて埋葬を希望したのかもしれない。しかし、先祖代々の墓ではなく、なぜこんな小さな墓石に一人葬られているのか――


 (そして、似過ぎていた――)


 写真の氷室美織、そして出会った氷室美雨――叔母と姪、の関係で、こうも容姿が似通うものだろうか。


 「――発端は氷室玲彌かと思っていたが……違うのか?」


 答えは無い。ただ、軽井沢の涼しい風が男の頬を静かに撫でていくだけだった。

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