第8話 曇り空の下で
翌朝。美雨はゆっくりと眠りから覚めた。
兄の部屋で迎える、二度目の朝は、ひどく静かだった。
窓の外は曇り空だった。外は明るいが、陽の光は白い雲の向こうに隠れているのだろう。今日もそのうち雨が降るのかもしれない――朝の支度をしながら、美雨は寝室の姿見に映る自分の姿を確認した。
白いリボンタイのブラウスに深い緑のフレアスカート――兄が昨日、大学の用意と共に家から持ってきてくれたものだ。「少ししか持ってこられなかったから足りなかったら言って」と兄は言っていた。しかし、どの服も“氷室のお嬢様”としての自分を求められているようで、息苦しかった。兄の説明では、「家政婦の藤原さんに、美雨がよく着ていた服を選んでもらった」ということだったが、好きだった服というより、清楚で上品な服ばかりが選ばれていた――いや、違う。そんな服しか、持っていなかったのだ。
(髪を染めても結局変われないのかな――)
白いリボンタイを結ぶ時、どうしようもなく泣きたくなった。泣くのを我慢すると、指先に力が入り、リボンが歪む。それを幾度も繰り返す。その度に「氷室から外れるな」と言われているような気がした。自分で服を買おうか――そう思いながら、美雨は所持金に思いを馳せる。けれど、アルバイトを許されなかった美雨が自由に使えるお金はほんの僅かだった。
(お兄ちゃんに、アルバイトをさせてもらえないか頼んでみよう)
スマートフォンを確認する。アプリの通知、友人からのLINE。そして、彼氏からの「昨日大学に来なかったけど、どうしたの?」というLINE。少し迷って「体調が悪かったから」とだけ返す。「家出して兄の部屋にいた」とは言いづらかった。
その中に、父や母からの連絡は一件も無かった。兄が何か言ってくれたのか、と思いかけて、首を振る。思い返せば、心配の言葉を掛けてもらったことは一度も無かった。覚えているのは、大学からの帰りが少し遅くなった日に「門限の十八時には帰ってくること」と、母から届いた、あの短いメッセージくらいだった――家に帰ってこなくても、そういうメッセージが無い、ということはその件に関しては、兄が「自分の部屋にいる」と伝えているのかもしれないが――自分は父や母にとって、あくまで”氷室家の娘“でそれ以上でもそれ以下でも無いのかもしれない。そう思い知らされた気がした。
七時半――兄からLINEメッセージが入る。
【おはよう美雨。実は今朝から急に会議が入ってしまって、大学に送ることができなくなってしまったんだ。悪いんだけど、今日も休んでもらえるかな? 本当にごめん】
兄のメッセージに、仕方ないと思いながら返信する。
【お兄ちゃんおはよう。お仕事忙しいよね! 私は一人で行けるから心配しないで】
それだけ打ち込み、朝ごはんを食べようと思ったところで、スマートフォンが震えた。
画面には【兄】という着信の表示。何かあったのか、と慌てて電話に出る。
「もしもし? お兄ちゃん?」
電話口から返ってきたのは、いつもの穏やかな声だった。
ただ、その声に少し緊張した調子が感じられ、美雨も不安になる。
「……ごめん、美雨。さっきのLINE、見た?」
「うん。急な会議大変だよね。大丈夫だよ、私、一人で行けるから――」
言い終わる前に、兄の声が重なった――少し強い調子で。
「――いや、駄目だ」
空気が固まる――美雨が思わず息を呑むと、兄にそれが伝わったのか、幾分柔らかな調子で声が返ってきた。
「さっき、情報が入ってきたんだ。渋谷駅前でデモがある。通行規制がかかるらしい。警察も出動する予定だから、今駅前を通るのは危ないかもしれない」
「でも、そんなに大規模なデモじゃないでしょ? 行っても大丈夫じゃない?」
兄を安心させたくて、少し笑い混じりに言う。だが、兄は了承しなかった。受話口の向こうで落ちる沈黙――
いつもより低い声がゆっくりと返ってくる。
「……美雨。何かあってからでは遅いんだよ。過去にも、デモで怪我をした人はいる」
その声音があまりにも静かで――美雨は言葉を失う。
「今日は、家にいよう。明日なら学校にちゃんと送ってあげられるから。ね?」
兄の声は優しい。提案もとても優しい――なのに、強い“行かせたくない”という気持ちを感じる気がするのはどうしてだろう。その直後、兄は明るい声の調子に戻して、こう続けた。
「そうだ。昼過ぎに、まとまった時間が取れる。良ければそこでランチをしよう。それでどうかな?」
兄をこれ以上困らせたくなくて、そして、何だか自分がとても我儘を言っているような気がして、美雨は頷くしかなかった――溜息は決して聞こえないように、喉の奥に押し込める。
「……わかった。大学には行かない――」
「うん、良かった。分かってくれて――あ、そうだ。大学に行かないからって、部屋の外に出るのもやめた方がいい。デモもそうだけど、最近この辺りも物騒だから。分かってくれるね?」
「うん。お兄ちゃん、ありがとう……」
通話はそこで切れた。
部屋に戻った静けさは、朝起きた時よりもずっと重たく感じられた。窓の外は相も変わらず曇り空。街並みを見下ろす。静かだ。本当にデモなんてあるの?――そう思ってしまった。でも、そんなことを思ってはいけない。兄が自分を本気で心配してくれているのだ。兄の気持ちを無碍にしてはいけない、いけないはずなのに――
(外に、出たい――)
昨日、バーで出会った男と街を歩いたことを思い出す。こちらの歩調に合わせてくれて、たくさん話を聞いてくれて――そして、突然去ってしまったあの人――
(あのバーに行けば……)
行けなくても、渋谷の歓楽街に近づけば、会えるかもしれない。会いたい――と思って、美雨はそんな自分に気づいて驚く。
――そんなことを思ってはダメ。彼とは、きっと、あまり会わない方がいい――
無理やり頭の中から昨日のことを追い出す。その後、朝食に食べたトーストは、何の味も感じられなかった――本当はやっぱり外に出たい。でも、外に出たら――兄がどう思うか。美雨はそれが怖かった。
スマートフォンが震える。
画面には兄からの新しいメッセージ。
【デモ、その部屋からは見えないかもしれないけど、結構大きくなってるらしいよ。――やっぱり出なくて正解だった】
兄は本気で心配してくれている。そう信じて、美雨も返信する。
【お兄ちゃん心配してくれてありがとう。ランチ、楽しみ!】
(……ランチ、か)
兄からは了解を示すスタンプが送られてきたので、美雨もLINEアプリを閉じ、スマートフォンをガラステーブルの上に置いた。
昼に兄と会ったら、その時に、アルバイトのことを話してみよう。
そう思うと、心が少しだけ晴れた。
美雨は、気を紛らわそうと、静かで整った部屋の掃除を行うことにして、立ち上がった。
ちょうど昼になろうかという頃――
玲彌は言葉通り部屋に顔を出した。
「朝早かった分、昼休憩の時間が早めに取れたんだ」と微笑んで、美雨を外へ連れ出す。
白いレクサスの助手席に座る。車窓の外を流れていく街並みは美雨にとって、まるで別の世界のように感じられた。
「今日は、俺の好きな料理だよ。美雨もきっと気に入る」
運転する兄の言葉に、美雨は微笑んだ――その表情を求められた気がして。車は、そのまま迷いなく、高級ホテルのエントランスに滑り込んでいく。
それは、美雨も氷室家が参加を義務付けられた会食で利用したことがある都内のホテルだった――白い制服のポーターが一礼し、ドアを開ける。
案内されたレストランは、静かで落ち着いた雰囲気だった。
東京の街を一望できる窓際のテーブル席。曇り一つない銀のカトラリー。
運ばれてくる料理はどれも美しく、香り高く、味も申し分ない。
けれども、美雨はどこか落ち着かなかった。
兄がメニューを決め、飲み物を選び、話題も自然に主導していく――美雨が話をしようとすると、兄が次の話題を話し始める――きっと、悪気は無いし、楽しませようとしてくれているのだろうが――美雨は幾度も言葉を飲み込んだ。
「どう?美味しい?」
「うん……すごく」
兄は満足そうに頷くと、グラスの縁を指先でなぞった。少しの間。
(……今なら、言えるかもしれない)
勇気を出して、美雨は口を開いた。
「お兄ちゃん。あのね――私、アルバイトをしてみたいの」
玲彌の手が止まった。
グラスがテーブルに戻される音が、やけに大きく響く。
「……アルバイト?」
「うん。少しでいいの。自分で使うお金が欲しくて……」
兄はゆっくりと首を傾け、微笑んだ。なぜそうしたいのか、わからないと言うように。
「美雨が何か欲しいなら、俺に言えばいいだろう?必要なものは全部、用意してあげる」
「でも……自分で働いてみたいの」
美雨の声は小さくなる。玲彌は微笑みを崩さなかった。
ただ、その視線は静かに彼女を射抜いた。
「働く必要なんてない。美雨は氷室の娘なんだ――美雨に何かあったら、氷室家全てに迷惑がかかるよ、分かる?」
その言葉に、胸の奥がひやりとした。それでも美雨は引き下がりたくなかった。唇を噛み締め震える声を絞り出す。
「……じゃあ、服が欲しいの」
「服?」
「うん。大学で着る、少しラフなものが……今の服、みんな“お嬢様”みたいで……」
兄はその言葉に考えるように黙ったが、しばらくして「わかった」と口を開いた。
その声に安堵しかけたのも束の間――
「どんな服が欲しいの?」
兄の言葉に、美雨はスマートフォンを取り出し、通販サイトを開いた。
画面には、ナチュラルカラーのブラウス、動きやすそうなデザインのパンツ、アクティブな印象のパーカー
「こういうのなんだけど……」と見せると、兄の眉が顰められた。
「……こういう服は、美雨には似合わない」
冷静な声だった。
この話はここでおしまい、というように兄はそれ以上何も言わずにテーブルの請求書に目を落とし、近くのウェイターを呼ぶ。
ウェイターが静かに会釈し、伝票を持っていく。
その間も、美雨の胸の奥には、言葉にできないざらつきが残っていた。
ランチが終わる頃には、兄の笑顔はいつもの穏やかで優しいものに戻っていた。
美雨をさりげなくエスコートしながらレストランを後にする。車に乗り込む際は、ドアを開けてくれる――どの動作も慣れていて、スマートで、ソツがなかった。
「美雨、ランチ美味しかったね。また連れて行ってあげるね」
そう言って、優しく背中を押された。
ホテルの香りも、車内の柔らかな空調も、すべてが心地よい、のだと思う――そこに美雨の意志は入り込めないが。
帰り道も、ほとんど兄が話していた。
仕事のこと、父母の近況――気を遣ってくれているのかもしれない、だが、その中で美雨が自分の話をすることは無かった。「否定されたら、気に入らない言葉だったら――」そう思うと何も言えなくなってしまった。
マンションに着き、部屋に戻る。兄はそれを見届けると、玄関先でふと振り返った。
「服が足りないなら、俺が用意しておく。心配しなくていい」
どこまでも穏やかな声――
それでも、その言葉の奥に、“美雨の意見は聞かない”という無言の圧力が潜んでいるように感じた。
美雨が返事をするより早く、兄は「すぐ戻るから。この後も外に出ちゃいけないよ」と微笑み、ドアをゆっくり閉めていく。
閉まる扉の音がとても静かに響き、美雨はまた一人になった。
(……閉じ込められてるみたい)
そう思った瞬間、胸の奥がヒヤリとした。違う、と思わず首を振る。
(お兄ちゃんは、私のためにしてくれてるだけ)
(あの家から出られただけで、私は十分幸せなんだ――)
自分に言い聞かせながら、窓際へと歩み寄る。
外はまだ曇っていた。昼下がりの街は賑やかだが、やっぱりこの部屋からデモや騒動の気配は感じられない。
鈍く白い光が差し込むリビングの片隅、モンステラの葉が空調の風でカサリ、と動く。
その葉の陰で――小さな赤い点が、静かに明滅して消えた。
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