父の視点
スマホのアラームが、朝を知らせる。午前五時五十分。まだ寝れる。
また、アラームが鳴り響く。六時ちょうど。起きねば。
妻とは寝室を別にしているため、起こしてくれる者は誰もいない。
寝ぼけ
「なんだ、好きな子とのメッセージでも見返しているのか?」
「ちげーよ! ショート動画見てたんだよ。学校で流行ってて、グループメッセで流れてた」
そのやり取りを妻は微笑ましそうに見つめていた。
「今日は朝から雨か」
美沙の顔を見ながら声を掛ける。
「あら、いつ止むのかしら」
そう言って、テレビをつけるとちょうど天気予報の時間だ。
『今日の東海地方は朝から夜遅くにかけて雨。時折、強く降り、雷を伴うところもあるでしょう』
お天気アナウンサーの子は、オレのお気に入りだ。
「ミサちゃん、かわいいなぁ」
「えっ……!」
「母さんのことじゃないぞ」
ダイニングは笑いに包まれた。――菜月を除いて。
長女が用意した今日のメニューは、ご飯とサンマと味噌汁。立ち込めるいい匂い。骨を取りつつ、黙々と口に運ぶ。
長男は菜月にぶーたれていた。
「姉ちゃんさぁ、骨の多い魚はやめろって言ってるだろ? 姉ちゃん用の食パン、余ってるならそれ、焼いてよ。二枚ね」
「食材の文句は、お母さんに言ってよ。それに最近、お肉ばっか食べて偏ってるから、朝くらい魚を食べてよ」
そう言いながら、トースターに二枚セットしている。菜月はなんだかんだ、優しいな。笑顔で対応したらもっと良い子になるのに。
「いらないなら、オレがもらうぞ」
「ん」
皿にのったサンマを一尾オレの更に移し替える。
「お父さん、ご飯のおかわりいる? よそおうわ」
妻がオレの茶碗を手に取った。炊飯器に向かって大盛りにしてくれる。オレはスマホを手に取り、SNSで呟く。
『朝から激マズ焼きサンマ。焼くだけなのにマズイとか、嫁はメシマズの才能あるわ』
メシマズ嫁との日々をつづるアカウントもフォロワーが千人を超えそうだ。みんな、他人の不幸が「おいしい」のだろう。
ご飯を食べながら、タイムラインを見ていると、程なくリプが来た。
『奥さん、ヤバない? 夫さん、マジおつかれーっす』
ほくそ笑む。こうして、大切に育ててきたアカウントで、反応をもらえるのは気持ちがいい。
その間も、長女は席につかず、キッチンで朝食を摂っている。
「いってらっしゃい」
美沙の声を背中で受けて、車に向かう。傘とカバンを助手席に置く。
「今日も会議か……」
独りごちると、少し冷えた車内に暖気が流れ込む。ラジオをつけ、ため息をついた。
『今日の天気は雨。夜遅くまで降り続けるでしょう。ここで交通情報です』
片道三十分の地獄への道。このまま遠くへ行って、海でも眺めていたい。その思いは赤信号でとまった。
株式会社イオニ建材商社。
従業員は百人にも満たない弱小商社だ。
「先月は業績も悪く、たるんでいる社員もいるようだ」
朝礼で二代目がこちらを睨みながら言う。ついにオレの番なんだな。そう、痛感する。
「来年は新卒を多くとり、使えないやつは即、切るからな」
そうは言っても、やる気のある若手はどんどん辞めていったじゃないか。残っているのはオレみたいな中途半端なやつばかり。繰り返しても分からないなら、無能と言わざるを得ない。
「
またか。若手の青木はいつもこう言って、オレに頼ってくる。
「森工務店の社長か? もう二年目なんだから、オレに頼らず、自分で工夫して営業するのを覚えろよな」
そう言いつつ、得意先の資料に目を通す。ここの社長は値引き要求ばかりするからな。しかし、青木とこことの信頼関係さえ築けば、多少のことではなにも言わないだろう。
「原材料高騰で値上げばっかだからな。ロット買いで割安にするとか、やりようがあるだろう」
「あ、考えていませんでした。前の引き継ぎないまま、先輩に飛ばれちゃったからなぁ」
あいつか。そうだったな。せっかく育てた部下も、辞めていく。諸行無常とはこのことだろうか。
「んじゃ、僕はお昼行ってきます。課長もどうですか?」
得意先回りもひと通り終わり、十二時半。少し遅めの昼休み。
「いや、弁当があるから。青木は外で食べてこい」
「愛妻弁当ですか? いいなぁ、僕もいい奥さん、ほしいー」
「あんま美味くないけどな」
「またまたー。こういう時、ごちそうさまですって言うタイミングですよね?」
「いいから早く食ってこい。次は仕入先と倉庫も回るからな」
青木は調子がいいやつだ。オレの不遇な結婚生活についてこぼしてもこうして流されていく。
取引先との接待の約束も取り付けた。まぁ、自費なのだが……。外回りのガソリン代も自費だ。二代目社長は今ごろゴルフか豪勢な昼飯に舌つづみか。経理のお局、山本女史の小言が聞こえてきそうだ。
「また接待ですか? 滝本さん、課長だからって多くないですか? 私的に利用しているだけでしょう? 経費では落ちません。社長? あれは必要な接待なんでしょ? 知らないけど」
うちの妻よりは小綺麗だが、ほうれい線や首のシワが貫禄を
……足りない。
弁当二個でも、オレの腹は満たされない。コンビニでおにぎり二個とフランクフルトでも買うか。
午後五時。
ホワイトボードの「青木と営業まわり」の文字を消した。
背後から気配が。振り向くと、二代目が鬼の形相で立っていた。
「レア建設会社の件、知ってるか?」
「……帰社したばかりなので存じませんが、なにかあったのですか?」
確か、坂本が担当していたはずだ。あいつはミスも多く、引っ込み思案だからな。なにかあったな。
「あいつ、坂本が、発注ミスをしたんだ! なんで社内で共有しない? 営業課長だろうが。これで数百万の損失だ! 部下のミスはお前のミスだ。明日、坂本と一緒に菓子折りでも持って謝りに行ってこい!」
顔を真っ赤に感情のままに怒鳴りつけ、二代目は足音を大きく立てながら去っていった。残された社内の空気は最悪で、青木と顔を見合わせ、肩をすくませた。
坂本の様子を見ると、縮こまりうつむいている。
「……坂本。明日、一緒に謝りに行こう。大丈夫だ、人間なんだからミスすることもあるさ」
「……はい」
消え入りそうな声で返事をした坂本の姿に、菜月の姿が重なった。席につく暇もなく、料理をする長女。みるみる肥えていく妻の美沙。わんぱくに育った翔太。本当は気づいていたんだ。
見積書、報告書を営業事務の子と手分けして作成する。そうしているうちに、終業の鐘が鳴った。営業事務の子は先に帰らせて、続きは自分。
『今日は遅くなる。八時には戻るようにする』
美沙にメッセージを打ち、少しの休憩。お腹が空いた。あれだけ昼に食べても、まだ足りない。
「みんな、デリバリーでも頼むが、何がいい?」
「やったー、んじゃワックが良いです!」
「近くのサンドイッチ屋もイーバー出来ますよ」
「分かった、ワックな。オレはビックワックと、ポテトLにナゲットと――」
「課長、ガッツリっすねー。それじゃ晩メシ入んなくないですかぁ?」
「いいんだよ。家で食うより、美味いからな」
奥さんの手料理は別腹なんですってと、青木が言う。みんなもそれで納得している。リアルはネットのようにはいかないな。
午後八時。
帰宅すると、洗濯物をたたみ終えた妻が「おかえりなさい」と声を掛ける。返す気力もなく、ソファーに座り、ネクタイとジャケットを放り投げる。
「もー、お父さんったら。ちゃんと片付けてよね」
菜月に目をやると、台所に立ってご飯の支度をしていた。
「菜月は勉強、やっているのか?」
「…………」
声をかけても返事はない。部活もしてないから体力は大丈夫だろう。だが、難しい年頃だ。娘との会話は諦め、息子に目をやる。
「っだあぁーー! ちゃんとキャリーしろよな! 使えねー味方っ」
スマホでゲームをしているらしい。
「晩御飯は食べたのか?」
「ええ。今、お父さんの分を作っているからね」
作っているのは菜月じゃないか。
「父さん、今日は野菜炒めだよ」
舌を出し、マズそうな顔をわざと見せて翔太が言う。どうやら、肉が少なめだったらしい。ワックを食べておいて正解だった。
コトリ。野菜炒めとご飯と味噌汁がテーブルに並ぶ。肉は豚でキャベツにもやしと今日は節約料理だ。
「食べた気にならねぇー。なんかお菓子ない? ポテチとか」
「翔太、いい加減にして!」
食べ進めていた箸が止まる。
静まり返るリビング。テレビの音声だけが聞こえていた。
「あーあ。女はすぐそうやって感情的になる。いいよな、泣いて叫べば世の中、思い通りだもんな」
ネットの受け売りだ。オレもSNSでよく見た言論だ。
「菜月、お姉ちゃんなんだから、翔太の言うことなんて気にしちゃダメだからね」
「ちがう! なんで、わかんないのよ!」
そう言って、菜月は二階へと消えていく。残された三人は乾いた笑いを浮かべていた。
「なにあれ。お姉ちゃんはもっと大人だと思っていたけど……」
「論破成功! あ、母さん、お菓子ある?」
「はいはい。ほんとに食べ盛りなんだからー」
オレはまた箸を進める。豚肉の甘みが口いっぱいに広がった。キャベツも甘く、もやしの食感でメリハリを付ける。味噌汁で流し込み、またご飯に手を伸ばす。
流し台に食べ終わった食器を置いて、風呂に向かった。
湿度の帯びた空気を鼻に吸い込み、ため息を付く。
「はあぁー。今日は色々あったなぁ……」
会社で理不尽に怒られ、家で娘が反抗期。妻は息子にしか愛情を向けないし、オレも外でクタクタ。家族水入らずでいた頃って何年前だっけ? おぼろげな記憶のモヤは疲れとともに湯船に溶けていった。
晩酌にと買ってきたスーパーの惣菜をつまんでいると、美沙が菜月に愚痴を垂れていた。
「お母さんだってね、あなたたち二人の学費やら、生活費の捻出やらで頑張っているの。翔太も年頃で聞かん坊だし……。聞いているの?」
「分かってるよ。大学は諦めてるから」
「なにそれ? ここまで育ててきたのは親のおかげでしょ? そんなクチ、聞いていいと思っているの?」
「違うよ、翔太のために進学は諦めるって言ってるの」
「そう、ならいいわ。少しでも早く楽させてよね。それで結婚して孫でも見せてちょうだい」
「……分かってるよ」
菜月は良い子だ。
二人の会話をつまみに二本目の発泡酒に手を伸ばす。
そしてSNSに「今日は野菜炒めだった。アレンジしすぎて脳がバグりそう(笑)会社でワック食べといてよかった。外食産業、バンザイ」とだけ投稿した。
すぐに「イイネ」がついて、続々とリプがつく。
『メシマズってアレンジしまくる傾向があるよね。レシピ通りに作ればいいのに』
『夫さん、いつも苦労が堪えませんね。ご自分で作らないんですか?』
は? なんでオレが作らないといけないんだ? 意味が分からない。このリプはブロックして、深呼吸をした。
「お父さんも苦労してるんだからね」
美沙の言葉に大きく頷く。菜月は「分かっている」とだけ言って自室に帰っていった。
「お姉ちゃんも最近、また反抗期なのかしら。もっと大人になってほしいわね。来年には選挙権ももらえる大人だって言うのに」
「そうだな。早く自立して家に金を入れてくれないと困るからな」
「この家は翔太に相続して、私たちはお姉ちゃんの家で暮らしましょうね」
「ああ、老後の面倒も見てもらわないとな」
そうだ。菜月はいい人でも見つけて、オレたちの面倒を見てもらわねばならん。
「おやすみなさい」
そう言って美沙とは別々の寝室へと帰る。ベッドに横になると、スマホで動画を見ていた。
「明日は菓子折りの用意と……
つぶやきながら眠りへと落ちていった。
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