◇ 救済者
「え……あぁ!」
まずは『よーへい』と呼ばれたことに合点がいった。それは俺のインスタ名だ。そして、
「ええ!?」
驚いた。あの日たまたまインスタを交換した相手と、こんな場所で再会することがあんのかよ。
「ふふふっ」
その行動を白衣の女性はすぐに理解し、立ち上がって俺の横に回り込んでくれた。
「覚えてますー?」
マスクをつまんだまま、にこにこと微笑んでくる。
茶色いミディアムボブ。白衣から伸びる白タイツ。無機質な空間に、ほんわかとした癒しのオーラが満ちる。
「お、覚えてます! うわぁ……」
一気に記憶が蘇る。
あれはユニクロに行った日のこと。美虎に服を買ってやった帰りにばったり出くわしたのが、この女性だった。
そのとき彼女はロングコートの下に白衣を着ていて、俺はナースかと予想したが……なるほど。その正体は『歯科衛生士』だったようだ。
予想外だったのはそれだけではない。
コートの下は、息を呑むほど胸が大きかった。
「…………『宮野』さんっていうんですね」
「そんなそんな、花耶でいいですよー」
花耶さんはおっとりと笑い、こう尋いた。
「鈴代さんとこの猫ちゃん元気にしてますかぁ?」
猫? ……あぁ、美虎のことか。
そうだ、この人とは猫(美虎)がきっかけで知り合ったのだ。
「元気というか……ヤンチャっすね。昨日ドライヤーで殴られて、このザマです」
俺が左頬を撫でると、花耶さんは「またまたぁ」と可笑しそうに笑った。
「それでは始めますね〜」
マスクを付け直すと、花耶さんはまた最初の位置に戻った。ぐっと顔を覗き込まれ、その瞬間──たふっ、と俺の頭にやわらかい感触が押しつけられた。
……いや、仕事だから。変なふうに考えるもんじゃねぇ。
懸命に自分を律するが、その意志に反してやたらと顔が熱くなる。花耶さんにぺたぺた顔を触られながら、どうか照れてんのがバレませんように、と俺は祈った。
「ちょっと音がしますね〜」
花耶さんはほんわかとした口調で、目尻もとろんと垂れていたけれど、その瞳の奥には真剣な光が宿っているように見えた。
お喋りなタイプに見えたが、さすがはプロだ。
「水が出ますけどびっくりしないでくださいね」
「うおっ」
「ふふ、びっくりしましたねー」
「あ、はい……」
なんだこの、あやされている感じ。
歯医者は得意ではないが、この病院だったら毎週でも通いたい。
「歯石を取り除いていきますね〜」
キーンという振動音を聞きながら、
この歯科クリニックがやたらと男性から支持を集めている理由って、この人の影響なんじゃ──
俺はぼんやりとそんなことを考えた。
「あとでDM送りますね」
猫のことで色々と相談があるらしく、帰り際に花耶さんからそう言われた。
「は、はい! 待ってます!」
すこし緊張しながらそう返事をした。
そのあとは予定どおり大学に行ったのだが、休み時間も放課後も、俺は何度もスマホを出しては通知を確認することとなった。
◇
「なんで朝起こしてくれなかったのよ」
「え? ──ああ、わるいわるい。緊急事態が起きたんだよ」
にっ、と俺は美虎にピカピカになった歯を見せる。それから詰め物が取れたことを話した。
「そう……なんだ……」
ドライヤーという単語をきいて、美虎は表情を曇らせた。
「…………平気なの?」
「平気? 何がだ?」
「だから、その……歯がよ」
「ああ、大丈夫だよ。夕飯も食っていいってさ」
俺はインスタを開きながら答える。
花耶さんから、まだDMは来ない。何時まで仕事なのか聞いておけばよかったと軽く後悔する。歯医者にも残業とかはあるんだろうか。
「──それより聞いてくれよ。歯医者に誰がいたと思う?」
俺は机にスマホを置き、花耶さんのことを話した。
「なによそれ……心配して損した」
「し、しんぱい……?」
こいつの口からそんな言葉が出てくるとは思わなかった。
美虎はなぜかキレながら言い返してきた。
「はあ? 心配なんて言ってない。『失敗』って言ったのよ」
「失敗って何をだよ」
「さぁね。あーあ。もう何本か折ってやればよかった」
ふんっ、とベッドに座った美虎はそう言って、またアイフォンをいじり始める。
やっぱり、可愛いと思う。
美虎は今もまだ俺のパーカーを着ていた。そのくせにツンツンしてるところが、また可愛い。
そんな美虎が、誰とやり取りをしているのか気にはなるが──
ピコリンと、俺のスマホが音を鳴らしたのは、そんなときだった。
美虎からスマホへ、俺の意識は自然と移っていった。
『仕事おわりました! やっと土日だー』
ナイス、花耶さん。ファインプレーです。
また今朝のように、泥沼へ沈むところだった。こうやって気を紛らわせてくれるのは、心底ありがたい。
今日あの歯医者に行ってなかったらと思うとぞっとする。
そんなことを考えながら、俺はポチポチとDMを返した。
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