◇ 宮野花耶
ゆっくりと目を覚ます。
思考能力はまだゼロ。頭の中は霞がかかったまま。
俺は目を瞑ったままもぞりと布団をかけ直した。このまま、もうしばらく夢見心地でいたい。
今この瞬間にはモラルも法律も親も世間も糞もない。ただただ、くすぐったい幸福に身を委ねられた。
「かわいかったな……」
──と、そこまでだ。
ぽろりと溢したその一言がきっかけで、すこしずつ頭が冴えていく。
いやいやいや、妹だぞ。何を夢見てんだ、俺は。
そう、それこそが兄としての正しいビジョン。
しかしそう考える俺の胸にはまだまだ冷めていきそうにない温かさがあり、その温度差に風邪でも引いたようなダルさを覚える。
変な夢に、情緒を壊されてしまった。
抱っこするぐらいのこと、ちょっと前の俺なら何でもなかったはずなのだ。少なくとも、数日前ペットサロンで美虎を抱いたときには何も感じなかった。
なのに、今、夢の中でみただけの抱擁にこんなにも動揺している。
思い出せ、あの女ドライヤーを鈍器に使ったんだぞ。
まだちょっと違和感あるし──
ぶたれた箇所を手で押してみると、歯茎がじんと疼いた。
百歩譲って、『妹と結婚できる世界』に転生したとしても、あんな物騒な相手は選ばない。
顔でも洗うか。
布団をめくり寝床を脱出する。
ちらりとベッドに目をやると、美虎はまだ眠っていて、膨らんだ布団が呼吸に合わせて上下している。
半分だけかぶったフードに猫耳が隠れていた。
そして、その手が握りしめるアイフォンを見て、胸がちくりと痛んだ。
あぁ、くそ。こういうのがよくねえんだ。
俺は視線をそらし、さっさと部屋を出た。
洗面所に下りて、ぶくぶくと口を
「んぐっ!?」
一瞬で涙目になり、両手で頬を押さえつける。
きーんと冷えた冬の水道水が、恐ろしく歯に染みた。まるで神経に細い針を突き立てたような鋭い痛み。
(なんだなんだ?)
堪らず水を吐き出す。くるくると洗面台を旋回しながら転がった物──。
「アルミホイル!?」
……じゃない。よく見るとそれは、歯の詰め物だった。
◇
「根本的な原因はドライヤーでしょうな。それで外れかけた詰め物が寝ている間に取れたと、こういうわけですな」
まぁそうだよな。
俺は相槌を打つ。
「自分でも無意識のうちに歯を食いしばって寝ていたんでしょう。よほどひどい夢でも見たんですかな。はっは」
白髪を生やした医者は快活に笑った。
「夢、ですか……」
あの夢に、歯を食いしばる要素なんてあったか?
内容を思い返していると、自分が無意識に肋骨をさすっていることに気づいた。──肋骨……あっ、
『お兄、だーいすき♡』
もしかして美虎に抱きしめられた、あのシーンか?
「はは……」
苦笑するしかない。
まさか朝一番の患者が、実妹とのラブコメに歯を食いしばって来ただなんて、口が裂けても言えない。
大学の1限目を休み、朝イチで歯科クリニックに来ている。
近所にひとつ、ズバ抜けて評判の良いクリニックがあった。レビュー件数が100近くあるのに、☆の評価は満点に近い「4.8」だ。口コミの大半が男性だったところに少し怪しさを感じたが、第二候補の病院は「☆1.7」──足を運ぶ勇気が出ず、半信半疑ながらここに決めた。
「はい、では痛かったら手をあげてください」
「はい」
目を閉じる。口内に器具を突っ込まれながら、俺は自然と妹のことを考えていた。
よくない、よくないぞ。
腹の上で指を組み、何度も念じる。
いつもと違う装いにどぎまぎしたり、恋人の有無を気にしたり──これじゃまるで妹に片思いをしてるみたいだ。
恋心……ではない、と信じたい。
思えばこの一ヶ月、俺は美虎に付きっきりだった。
そのこと自体は後悔していないが、やっぱ世間一般の兄妹よりはベタベタしていたと思う。それ故の、この結果なんだろう。
(もっとこう、別の方向に意識を向けないと……)
バイトを増やすとか、テレビを買って帰るとか。べつに何だって構わないのだ。あいつの顔を見る機会さえ減らせば。
と、そんな折。
「──はい。詰め直し終わりました」
すっと口内から器具が取り除かれた。
「えっ、もう?」
「もうですよ」
体感としては10分そこらだった。
なるほど、取れた詰め物を持ってきて正解だった。
カウンセリングで『付け直すだけで済みそうです』とは言われていたが、まさかボンドで引っ付けただけじゃないだろうな? そんな速さだった。麻酔すらされていない。
「ハイ。じゃあ宮野さん、仕上げお願いね」
白髪の先生がカーテンの向こうに消え、入れ替わりに白衣の女性が入ってくる。シャッ、と音を立ててカーテンを閉めた。
「はーい
ガコンッ──診療台が傾けられる。
衛生士さんはマスクをしていたが、一目見るだに美人とわかる雰囲気を纏っていた。だが、ろくにその素顔を想像させないまま、すたすたと診療代の枕側にまわりこみ、俺の視界から消えてしまう。
カチャカチャと治療器具を選ぶ音が頭の上のほうで聞こえ、次の瞬間、ひょいと逆さをむいたお姉さんの顔が現れた。
いきなりの至近距離に、ぎくっとさせられる。
大きくて、澄んだ瞳だった。
こんな綺麗な目にこれから口の中を覗かれるのか。こんなに恥ずかしいこともそうそうないぞ、と思ったが今さらだ。──とそこで、
「あれっ」
お姉さんが驚いたように目を丸くした。
「鈴代さんって、『よーへい』さんのことだったんですねー!」
「ん?」
一瞬言っている意味が分からなかったが、知り合いなのかな。だだ、顔が逆さを向いているので、すぐにはピンと来ない。
「……どこかで会いました?」
俺が尋ねると、その人はぴろっとマスクを下げた。
「
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます