第六夜「縋る声」

放課後の職員室は、雨音の底に沈んでいた。

 蛍光灯の白さだけが、紙と息の隙間を冷たく撫でていく。

 間宮葵は、机の鍵束を掌で握りしめた。金属の冷たさが、脈と同じリズムで鳴る。


 画面には、消せない音声メッセージが一つ。

 何度聞いても、声はそこで途切れた。


「先生、もう無理かもしれないです。でも、先生に出会えてよかった。」


 その“よかった”が、刃のように胸に刺さる。

 あの日から、葵の夜は終わらなくなった。


 生徒の家庭の話を聞き、夜中にLINEを返し、休日も相談に乗った。

 頼られることでしか、自分を確かめられなかった。

 その糸が切れた日、彼女の心は音を立てて崩れた。


 鍵束は、彼女の“役割”の証。

 どんなに震えても、手放せなかった。

 今日は雨だ。雨の日は、いつもあの子が泣いていた。


 引き出しの奥から、葬儀の日に受け取った封筒を取り出す。

 封を切る。にじんだ紙から、音が立ちのぼる気がした。


「先生……聞こえますか」


 心臓が跳ねる。

 スマホからではない。

 耳の奥で、直接響いた。

 窓の外で雨が一瞬にして静まり、音が逆再生のように吸い込まれていく。


 視界の遠くに、小さな灯が揺れた。

 校庭の先、霧の中。

 電灯ではない。月の欠片のような光。


 ――花狼邸。


 葵は傘を持たずに立ち上がった。

 鍵束を握り、声のほうへ歩き出した。


──


 扉を押すと、蝋燭の匂いが迎えた。

 窓辺にひとつ、静かな灯。

 書を閉じる音とともに、蒼銀の髪の男が顔を上げる。

 狼の耳が、一瞬だけ伏せられる。

 尾が机の脚を軽く叩いた。

 本能の奥で、危険を知っている。


「お入りなさい。濡れたままでも構いません。」


 低く、穏やかな声。

 だが、その奥に硬さがあった。


 葵は椅子に腰を下ろし、掌の鍵束をそっと机に置いた。

 金属の音が、部屋の形を確かめるみたいに小さく鳴る。


「……声が、したんです」

「声、でございますか」

「ええ。死んだはずの子の。『先生、聞こえますか』って。」


 男――花狼めるの瞳に、鈍い紫が灯る。

 灯が呼応したように揺れた。


「あなたは、その声に縋られたのですね。」

「違います。……私が縋ったんです。あの子に、あの子の『助けて』に。

 先生は、誰かの“生きたい理由”になっていたいんです。

 そう言えば、穴が埋まる気がしたから。」


 葵はめるの瞳を覗き込んだ。

 蒼銀の光を、喉の奥で飲み込むように。

 指先が机をなぞり、灯に触れるほどの距離まで近づく。


「救われたいんじゃない。」

 声が震え、唇が火に照らされた。

「あなたが壊れる音を、私だけが知っていたい。」


 蝋燭が揺れ、空気が甘く焦げる。

 めるの耳がぴくりと伏せ、尾が床を引っかいた。

 わずかにのぞいた牙。

 彼の声の奥に、はじめて“不快”の気配が生まれた。


「あなたの中の灯は、くすんでおります。鈍い紫――混じり合い、腐り合った愛と支配の色。」

「……それでもいい。消さないで。

 あなたがいなければ、私、本当に消えてしまう。」


 呼吸が触れる距離。

 めるの指先が、わずかに机を押した。

 灯が揺れ、影がふたりの輪郭を一つにする。


「――灯は、誰かを縛るものではございません。」

「違う」葵は囁く。「縛るのは灯じゃない。あなたです。」


 めるの呼吸が一拍、止まる。

 葵は微笑んだ。祈りに似た熱を帯びている。


「だから、私を見て。あの子の代わりに。私を、救って。」


 鈍紫の灯がふたりの間に立ち上がり、焦げた匂いが満ちる。

 鍵束が滑り、掌から落ちた。金属の音が、薄い悲鳴みたいに床で跳ねる。


「先生は、誰かの“生きたい理由”でいたいんです。」

「それは、あなたの“生きたい理由”ではございませんか。」


 めるの声は低く、揺れない。

 だが尾はもう静止していない。

 左右に細かく震え、微かな音を刻んでいる。


「私は――“救っている私”でいたかった。

 あの子を救いたかったんじゃない。

 救っている私に、あの子がいてほしかった。」


 言葉に触れた灯が、はぜる。

 めるの瞳に、紫の火が細く映る。


「紫は、混じった色です。

 愛と支配が交わり、やがて腐っても――熱だけは残る。

 依存もまた、灯です。触れれば火傷をし、誰も照らせない灯。」


「それでもいい。」葵は首を振る。「焼けるなら、あなたの中で。」


 めるは、ほんのわずかに目を伏せた。

 耳が一瞬、動かない。

 沈黙は、拒絶にも赦しにも似ていない。


「……あなたの灯は、まだ消えておりません。

 けれど――その灯は他者を焼く熱を帯びております。

 あなたが縋るたび、あなたの手は“鍵”になります。

 相手を閉じ込め、あなた自身をも内側から閉ざす鍵に。」


 葵は鍵束を拾い上げた。掌に重みが戻る。

 救いの形だと信じてきた金属は、いつから錠前の音になったのだろう。


「私は、どうすればいい。」

「鍵を置くことです。

 “先生”である前に、“あなた”として息をすることです。」


 灯が静かに細くなる。

 めるは視線を上げ、決めるように言った。


「……あなたの灯は、まだ消えておりません。」


 その言葉は、縛るためではなく、結び目を見せるために置かれた。

 葵は頷いたのか、震えただけなのか、自分でも分からなかった。

 鍵束を机に残し、立ち上がる。掌の跡が木目に淡く残る。


──


 扉が閉まる音が、書斎に溶けていった。

 足音は遠ざかり、雨の残響だけが戻ってくる。


 花狼めるは、しばらく動かなかった。

 蝋燭の灯が、息を合わせるように微かに揺れる。

 指先で机の縁に触れると、冷たさの奥にかすかな熱が潜んでいた。奪われた灯の残り火――胸の奥で疼く。


 瞼を閉じる。鈍紫の光が、裏で滲んだ。形はなく、ただ焼けるように痛い。

 ――灯を渡すたび、何かが欠けていく。

 誰のものとも知れない“声”が、内側で囁いた。


 耳がわずかに震え、尾の動きが止まる。

 机のカップ。冷めたコーヒーの表面に、紫の灯が映り、ゆっくり消えた。


 指先が湿っていた。

 誰の涙か、わからなかった。


 めるの尾は、もういつものようには揺れなかった。

 彼自身の灯が、どこか削れているようだった。


 雨は、まだ止まない。

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