第肆夜「消えたい人」
夜は、静かすぎた。
スマホの光だけが、部屋を白く照らす。
通知の数字が増え、呼吸の音がやけにうるさい。
机には、昼間破られたノート。
夢のページがぐしゃぐしゃに濡れている。
涙か水か、もうわからない。
――画面が光る。
グループチャット。
いつもの悪口。笑い声の絵文字。
何も感じないふりで、親指だけが滑った。
そして、止まった。
「お前のせいでみんな気まずいんだよ」
「消えたらいいのにな」
送信者の名前。――親友。
指先から血の気が引く。
スマホが震えるのか、手が震えるのかもわからない。
隣で笑っていた顔が、文字の粒に崩れる。
「……冗談、だよな。」
声は出たのに、返事はどこにもない。
無機質な通知音だけが、一定の間隔で胸を刺す。
心臓は速いのに、体は冷たい。
机の端を掴む。重力が傾く。膝が抜ける。
床に座り、画面を見上げた。
「……もう、いいや。」
言葉が落ちる。
耳の奥で“キィン”と細い音が鳴る。
指の感覚が一つずつ遠ざかり、
カーテンが揺れ、画面の光がふっと暗くなる。
息を忘れた。肺が痛む。
空気が入ってこない。
胸の奥で、何かが弾けた。
世界から音が消え、光が遠のく。
……そのとき、どこかで小さな灯が、ぽつりと点った。
次に息をしたとき、目の前に――青い門があった。
⸻
暗闇の中で、何かが燃えていた。
それは炎というより、光の名残。
青でも赤でもない。静かに揺れている。
その向こうに黒い椅子。
背にもたれる男の影。
男は書を閉じ、長い指で灯の揺れを追った。
「……消えたくなるほど、あなたは生きてこられたのですね。」
低く、温かい声。
蒼銀の髪。胸元の青薔薇。
紅と翡翠の瞳が、蝋燭の灯を受けてかすかに波打つ。
部屋の空気は冷たいのに、その声だけが温かい。
「……ここ、どこですか。」
「静かな場所です。
あなたの息が、まだ残っていた場所。」
男――花狼めるは、机の上の蝋燭を見やった。
短い芯の先で、小さな光が呼吸している。
「その灯……」
「あなたの灯ですよ。」
一歩近づく。影が長く伸びる。
「こんなに小さいのが、僕ですか。」
「小さいのは灯ではなく――息の音です。」
「炎も肺も、同じように鳴る。
続いている限り、それは生きている音です。」
胸の奥がざらつく。
「……息、してる意味が分からなくなったんです。」
窓からの微かな風が炎を震わせる。
めるは静かに言った。
「それでも、灯は揺れていますよ。」
⸻
沈黙が長く続いた。
蝋燭がひとつ、明滅する。
その間に合わせるように、喉がわずかに動いた。
「……笑ってたんです、あいつ。」
めるは待つ。
「僕の机に落書きしたのも、上履きを捨てたのも、
全部、そいつ。『俺が味方だよ』って送った同じ指で、
あの文が打たれてた。」
声は震えるのに、言葉は止まらない。
「みんなの前では庇って、裏では全部仕掛けてた。
信じてたのに……笑ってた。僕が傷つくのを見て。」
炎が少し小さくなる。
「何も言えなかった。怒りも悲しみも、どこかへ行って……
何を感じればいいか分からなくなった。
それで、“消えたい”って思った。」
「消えたいと思ったのは、痛みを終わらせたかったからですか。」
めるの声は静かな水面のようだった。
「……違います。
誰にも見つからなくていいって、思った。
誰かの記憶に残るのが怖かった。
何にもなりたくなかった。」
吐息に合わせて炎が揺れる。
「僕、怒る資格も泣く資格もない。
『どうせ何も変わらない』って笑われるだけだから。」
めるは小さく首を振る。
「怒りも涙も、資格ではありません。
どちらも呼吸と同じ。出さなければ、苦しくなる。」
指先が机をかすめる。
「じゃあ……どうすれば。」
めるは灯を見つめる。
光が瞳の奥で淡く波打つ。
「息をするように、言葉をひとつ残していくのです。」
「言葉……?」
「あなたの中の“まだ生きている部分”を、
誰にも見せなくていい。ただ、言葉にしてみる。
それが、灯を絶やさない方法です。」
唇が微かに動く。
「……“消えたい”って言葉、
本当は誰かに拾ってほしかったのかもしれない。」
炎が、少しだけ大きくなった。
⸻
蝋燭の灯が穏やかに揺れる。
めるは顔を上げ、蒼銀の髪が静かに流れた。
「……あなたの灯は、まだ消えておりません。
ほら、今も――息をしています。」
胸の奥で、何かがかすかに動く。
言葉を返そうとしたとき、めるはそっと目を伏せた。
その仕草が “もう大丈夫” を告げているようだった。
灯がひときわ強く瞬く。
白い光が視界を洗い、世界がほどける。
――風の音。
まぶたを開ける。カーテンが揺れ、朝の気配。
机の上のスマホ。画面には途中で止まった言葉。
『消えたい』
しばらく見つめてから、指がゆっくり動く。
文字がひとつずつ消えていく。
代わりに打ち込んだ。
『おはよう』
送信ボタンの音が、今日最初の呼吸みたいに響いた。
窓を開ける。冷たい空気が頬を撫でる。
息を吸う。胸が痛む。
――それでも、痛みは“生きている”と告げていた。
外の光の中で空を見上げる。
遠い雲間で、一瞬だけ――薄藍の灯が揺れた気がした。
これは救いではない。息継ぎだ。
次の一息まで運ぶための、かすかな灯だ。
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