23話 手放すーー妻が赦すべき相手とは。


  笑わせる……。

  こんなに愛しているのに、

  “別れる”だと……?


ダニエルがずっと恐れていた言葉。

――ひどく冷たい手で胸元を掴まれたように、息が詰まる。


 「……ダメだ」


自分勝手と思われても構わない。

君を手放せるはずもない――。


ダニエルは立ち上がり、シャツの襟を乱雑に整えた。

視線を落とし、イネスを見ようとはしない。


 「……もう、決めたの」


その声にダニエルの動きは止まる。

握った拳の関節は白くなり、震えていた。


 「雪が降る前に、屋敷を出るわ」


背に感じるイネスの冷たい視線。

振り返ることが――怖い。


 「………っ」


 「住む家も見てきたの。

  候補も決まってる……」


先ほどまで腕の中にいた彼女が、まるで別人だ。


 「……あいつらのことは?

  あれだけ騒いでいたくせに、

  本当は、子供のことだって

  どうでもよかったんだろう」


繋ぎ止めたい……。


暖炉の灰に目を落とす。

残った灰が、自分の惨めさそのものに見えた。


 「……そんなわけないじゃない。

  あの子達は、わたしの宝物よ」


 「君の選択は、子供を捨てる

  のと同じだ……」


言ってはいけない言葉だと、わかっている。

自分のしたことの重さを思えば、決して口にできないはずなのに。

矛盾が喉を灼き、息が詰まる。


 「……あの子達の寮の近くに住むわ。

  それで、いつでも会える」


 「寮だと……?」

 「はっ……!

  だから、意味もなく街を

  フラフラと……。

  離婚の準備か……たいした策略だ」


ダニエルは眉をひそめ、支度を続ける。

椅子に掛けられた上着。

慣れない屋敷を歩き回り、イネスが揃えた一式。


別れを告げる相手にさえ見せる彼女の几帳面さが、余計に苛立ちを呼ぶ。


 「あの男が好きだからか……?」


低い声に滲む悔しさ。

怒りの奥に沈む悲しみ。

自分が彼女の心から削れていく恐怖に――どうしても責めずにいられない。


 「どうせ、あいつと一緒になる

  つもりなんだろう……」


否定してくれれば、まだ救われたのに。

イネスは黙したまま。

その沈黙が、胸の奥で音を立てて何かを崩す。

 

 「離婚――」


目の奥が痛む。

瞬きをするたび、視界がかすかに滲んだ。

唇を強く噛み、頬の震えを押し殺す。


どうすればいい……?


答えは、どこにもない。

足掻いても、彼女は許さない。


虚しさが皮肉へと形を変え、喉を過ぎる。


 「……君が寮の近くに住んだ

  ところで、あいつらが会いに行く

  とは到底思えない」


 「君に心を開いていない」


手が震える。

靴紐を結ぶだけで、こんなにも時間がかかる。


 「……今はノアが……彼女が、

  君との仲を取り持っている……」


 「彼女がいなければ、君は……

  あいつらに見向きもされない

  だろうな」


テーブルから椅子が消えた昨夜。

あの密かな胸の高鳴りも、もう幻のように遠い。

ダニエルの言葉がすべて本音に聞こえる。


 「……少しずつだけど、あの子達も

  わたしに心を開いてきているの。

  今にきっと――」


 「フッ……」


震える声で紡いだイネスの言葉を、

ダニエルは鋭く鼻で笑った。


静かな朝の、古びた屋敷。

その嗤いが重く響く。


 「過信するな」

 「君は、彼女の足元にも

  及んでいない!」


その瞬間――わかった。

この言葉だけは、越えてはいけない一線だった。


ゆっくり振り返ると、イネスは目を伏せている。

ドレスの裾を握る指に、深い失望が滲んでいた。


 「……いや、違う……

  俺が言いたかったのは……」


後悔の声。

だが放たれた刃は戻らない。


 「……出て行くなどと言うな。

  屋敷に残れ」


小さな呼吸。

ダニエル自身も気づかぬほどの緊張。


 「彼女を……信頼しているのね」


 「……ああ。この件に関していえば……」


その言葉で、イネスの心は決定的に固まる。


 「……あなたの言う通りよ」


短く告げ、静かに部屋を後にした。


うつむく。

ダニエルが結んだ靴紐は、左右の穴がずれていた。

鏡に映るのは無様な姿。

立ち尽くしたまま、イネスの言葉の残響だけが胸を締めつける。


愛人を引き合いに出した――許されるはずがない。


 「ダ、ダメだ……

  まだ、話は終わってな――」


イネスを追おうとした、その瞬間。


 ガヤッ……!


外から騎士たちの声と馬の蹄音。

金具が鳴り、重い足音が屋敷に入る。


 「……話は、屋敷に戻ってからだ……」


ダニエルはこの時、

無理をしてでもイネスを呼び止め、謝り、話すべきだった。


体が急速に重くなる。

この後、彼は再び体調を崩すことになる。


――


イネスは屋敷に戻る馬車に乗り込んだ。

揺れる車内で、ただ静寂だけが寄り添う。


門前。

馬車の窓から覗くと、ノアが駆け寄り、

弱々しいダニエルを抱きとめていた。


イネスの瞳。

まるで自分だけが置き去りになったように、

その光景がゆっくりと映る。


 「……ダ、ダニエル大丈夫?」

 「――やだ、酷い熱じゃない」


ノアに甘えるようにもたれかかるダニエル。

二人の間に漂うぬくもりが胸を締めつける。


そこへ駆け寄るキリアンとブラット。

イネスには目も向けない。


――『過信するな』


ダニエルのあの言葉が、痛いほど胸を刺す。

あの三人にとって、自分は“家族”ではなかった。


影が落ちる瞳。

けれど同時に、自分の道が見えた気がした。


  ダニエルの言うとおり、

  彼女はあの子達の特別。

  この屋敷で“不要な者”は……

  どう考えても、わたしだ。


そばにいることだけが愛ではない――。


  逃げているわけじゃない。

  愛の形を変えるだけ。

  一緒に暮らせなくても、

  あの子達を見守り続けよう。


朝の鍛練、笑い声、食卓。

あの短い日々は幻だったとしても、意味のある夢だった。


胸元のネックレスをそっと握る。


  エンリケ様……

  もう望みません。

  歪められた愛に救いなどありません。

  どうかダニエルを解き放ってください。

  わたしたちが穏やかに終われるように。


指輪を外す。

肌に残った淡い跡が、生きた証のように滲んだ。


ポケットにしまうと、わずかに笑みがこぼれる。

長く意地を張っていた。

まだ愛していることを、認めるのが怖かっただけ。


赦すか、赦さないか――

それは夫への裁きではない。

どれほど傷つけられても愛してしまった、

自分自身への贖罪だった。


石畳を踏む音が、決意を刻む。


嵐は過ぎ、空は澄んだ青。

赤い葉が舞い、胸の痛みを映す。

けれど、その景色はどこか美しい。


イネスは涙を拭い、静かに息を吸う。


 「前に進まなきゃ……」


胸元の石が、ふっと微光を返した。


彼女の優しさ。

そして愛ゆえに選んだ“手放す覚悟”。

それを知る者は、誰もいない。


――その石だけを除いて。


 


 ――次回予告

完成した子供服――踏みつけられた想い。

去る前の遺恨。

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