22話 羽音は空へ。


 ――バンッ…!!


「セオドリックっ!!」


部屋のドアが勢いよく開く。

 

響く声に驚いたセオドリックは、手にした茶を慌ててこぼしてしまった。


 「ノ、ノア様っ……

  あぁ、どうしよう……書類が……」


 「そんなことどうでもいいのよ!

  ダニエルが帰らなかったって、

  どういうことなの!?」


 「……カイロに向かわれました。

  騎士たちを、すでに手配済みです。」


重ねて置かれた書類が、こぼれた茶でくっつき、黒墨がにじんでいる。

 

 「……はぁ、書き直しかよ……」


 「……カイロ?」


 「はい。

  ダニエル様は、きっとご無事です

  ので、心配には及びません。」


前からこの人は苦手だ――セオドリックは作り笑いの裏で舌打ちを飲み込み、なおも食い下がるノアをどうにか押し出した。


 「……はぁ、相変わらずだな

  礼儀一つ知らない。」

 

 「くそ……こっちはやること

  山積みだっていうのに……」


茶や墨を拭き取った白いハンカチ。

ノアが一層憎らしく思えた。

 

ノアの残り香がまだ部屋にこびりついている。

セオドリックは鼻をつまむように指先で拭い取った。


コンコンッ……


 「アリーナです。」


昨日出たきり、戻らずにいるイネス。

アリーナは心配そうに、セオドリックのもとへ訪れた。


 「奥様は帰れずにいるだけでしょう。

  心配しなくとも、どこかの宿に身を

  置いているはずですよ。」

 

 「……それに、我々が思っているよりも、

  ずっと逞しく、奥様はしっかりして

  おられますよ……。」


イネスが少ない生活費を元手に、罰部屋で野草や施した刺繍を売りながら生活していたことを、セオドリックは屋敷を管理する者として知っていた。


 「そうですね……

  きっと大丈夫ですよね。」


アリーナが部屋を出ようとするが、セオドリックは独り言のように小言を呟く。


 「やっと主君の目が覚めたと

  思ったのに……

  まだ彼女をここに置いておくとは……」


 「なんのために、奥様の部屋を

  あれだけ急いで準備したのか

  わかったものじゃない。」


 「はぁ……

  ルーベン様に申し訳が立たない」


かつての主、先代伯爵ルーベン――ダニエルの父。

「息子を頼む」と告げて去ったその人は、結婚を迎える少し前、ダニエルが爵位を継いで間もなく病に倒れた。


書斎に飾られた家族の肖像画。

そこには幼いダニエルと、その父――そして少女ノアの姿。

 

セオドリックは溜め息をつき、ルーベンの言葉を思い出していた。


 「“あの娘は魔性”……

  今は、その言葉の意味がわかる気が

  します……」


アリーナは黙って聞いていた。

頷きもせずに、少し気まずそうに外へと目をやる。

 

昨夜の嵐は、嘘のように静まり返り、色づいた葉が枝先にわずかに残り、雫を宿して陽を反射していた。


 「――旦那様は、ぼっちゃま達のことを

  考えて、ノア様とのことを慎重になる

  しかないのでしょう……」


 「ですが、確かにこのままでは

  いけませんね……

  奥様の心は、すでに旦那様からは

  離れているというのに……」

 

凍えるような冬の気配か、すぐそこまで近づいてきていた。



――そのころ、嵐の明けたカイロの外れ。

 

柔らかな香りに包まれ、ダニエルの意識がふわりと浮かんでいた。

 

小麦畑の真ん中で、風に撫でられるようなあたたかさ。

どこまでも懐かしく、抱きしめたくなる匂い……。


そのとき、わずかに触れた肌の感触に、ダニエルはびくっと身を強ばらせた。

 

皮膚に伝う熱、柔らかさ。

 

現実が一気に押し寄せる。


はっと目を開けると、胸の下にイネスの姿があった。

心臓が大きく音を鳴らした。

 

理性が軋んだ。抗いようのない衝動が、下腹を熱くする。


  ……な、なんでこんなことに!?

 

体と心は裏腹。

頭の中は真っ白。


掛布をそっと捲ると、彼女はあられもない姿で、自分にぴったり寄り添うように眠っていた。


 「…は、はだかっ!?」

 

――口を固く閉じる。

 

  ダメだ、声をだすな。

  イネスが起きる……

 

  そ、それに落ち着け!

  イネスは、裸ではない……

 

しかし、薄い生地一枚。

ダニエルは息を呑む。


  …あ、頭の整理をしよう……


まわりを見渡すと、昨夜の服は暖炉脇にかけられ、自分はすでに着替えていた。熱で伏せていたとき、イネスがそっと手を貸してくれたのは明らかだった。

  

  ――だが、なぜなんだ……


掛布から覗く白い足。

裸も同然のその姿に、どう視線を置けばいいのか分からない。

  

  俺たちは……昨日、何を――

  まさか……!


ふと脳裏を過ったのは、めくるめく夜の幻。

 

  いや、そんなわけない…… 

  熱がある俺を、肌で温めた。

  どうせ、そんなところだろう……。


ダニエルは小さく息を吐き、イネスの寝顔を見守った。

揺るやかな髪に触れたくなり、唇を寄せたい衝動をぐっと堪える。


  愛しているの言葉じゃ

  この想いを、伝えきれない……

 

神経は、彼女を抱き締めている腕に集中した。


 「……んっ……」


イネスの口から、小さな声が漏れる。

揺れたまつ毛、寝返りを打つ体――。


  ……っイネスが起きる……!


ダニエルは慌てて寝たふりを決めこんだ。


イネスは、ダニエルの体温を確認するために、額に手を当てた。


 「……下がってる。

  よかった……」

 

イネスが小さく呟いたその言葉。

その優しさが、ダニエルの胸を締め付けた。

 

――しかし、イネスに余韻はない。

 

イネスは腕の中からそっと抜け出すと、静かに立ち上がる。

 

温もりが消え、ダニエルの心はふと重く沈む。

残念そうに薄目を開け、イネスの姿を追う。

 

イネスは、器用にコルセットを巻き、紐をきゅっと結んでいた。

胸の位置を整え、肩をまっすぐに――

そして、ドレスをすっと被り、髪を一つにまとめ上げる。

まるで儀式のような早業だった。


ノアは、朝になるとベッドまで使用人を呼びつけ、すべての身支度を整えさせていた。 

鏡越しに浮かぶ微笑み――

思い出したくもない過去。


朝日が差し込み、イネスの姿を淡く包んでいた。

ノアのそれとは比べものにならない。


  君を見ていると、なんだか

  心が洗われる……

 

胸元を整え、背筋を伸ばすその所作――ただそれだけで、美しかった。

ダニエルは息を呑む。

疚しい心や穢れなど、一片もない。


イネスの姿は、ダニエルには、泉に舞い降り、羽を整える渡り鳥のように映った。

心を奪われ、ただ――見惚れるしかなかった。

 

  そうだ、俺は――

  あの凛とした彼女に、一目惚れを

  したんだ……。


爵位を授かる少し前のこと。

病を患った父から領地の贈与が決まった矢先だった。

肩を落としながらも、やることは山積み。

そんな折、銀行へと足を運んだ。


その窓口で、彼女に出会った。

 

耳に届いたのは、借金を抱えた父親を励ます、澄んだ声。

その隣で健気に微笑む彼女。

背筋はまっすぐ、瞳には揺るがぬ意志が宿る。

ただ柔らかいだけではなく、芯の強さが全身から滲み出ていた。

その凛とした美しい姿に、胸の奥がぎゅっと締め付けられ、目が離せなくなる。

理性が音を立てて崩れ、心は奪われた。

    

その日から、彼女のことが頭を離れなかった。

想いは膨らむ。

悶々とし、時間だけが過ぎたある日――。

 

オリバード帝国の建国式典。

 

人で溢れる会場で、再び彼女を見つけた瞬間――

理性より先に、体が反応していた。

 

騒がしいざわめき、人々の足音、視線の洪水の中で、彼女だけが鮮明に目に焼き付く。

そして、気づけば声をかけていた。

  

詐欺師かと疑うように、身構えた彼女。

それでも、警戒の奥から引き出せたあの笑顔は、何よりの報いだった。


――

 

――イネスが振り返ると、ダニエルは直ぐに目を閉じた。


 「……ダニエル、起きて。」


肩を揺すられ、ダニエルは今起きたように装った。


 「……面倒をかけてすまなかった。」


イネスは柔らかく笑うと、窓をそっと開けた。


 「いい天気ね。

  熱も下がって、よかったわ。」

 

振り返る彼女。

朝日の眩しさと、吹き込む冷たい風が部屋を満たした。


 「……ダニエル、昨日はわたしこそ

  ごめんなさい。」


 「……ごめん?」


 「ええ……。

  あなたから言われていたのに、

  馬車でいかなかったわ……」

 

 「それに、天気が崩れたとき、

  直ぐに帰らなかった……」

 

 「君が無事なら、それでいい。

  ただ……心配した。

  それも、すごく……」


靴の紐を縛りなおしながら、イネスの指先が軽く動きを止めた。

瞼を閉じ一呼吸置く。

その迷いを、吐き出した息と共に払拭した。

 

そしてイネスは、ゆっくりとダニエルへ視線を向けた。

 

 「本当はまだ、言わないつもりでいた

  んだけど……

  それだと不誠実に思えたの。

  だから今、言うわね。」


 「不誠実……?」


不穏――。

嫌な予感にダニエルの瞳孔が僅かに揺れる。


 「――わたしは、あなたと別れる

  つもりよ。」


言葉を失うダニエル。

底のない谷――そこへ足を踏み外したよう。


 「離婚の準備をするわ。」


イネスの声色は、いつもより低く、静かに落ち着いていた。

けれどその響きは、羽音のように軽やかで――

今にも、どこかへ飛び立ってしまいそうだった。



 

――次話予告

私の決断は、間違ってはいなかった。

夫の傍で微笑む女。




作者からです。

ここまで物語を追いかけてくださった皆さまへ、心より感謝申し上げます。

拗れた愛がどのように形を変えていくのか、子どもたちとの関わりも含め、結末まで頭の中で描いております。

今後も、皆さまに楽しんでいただけるよう心を込めて執筆してまいります。

イネスやダニエルの選ぶ道、そして広がるさまざまな愛の形を、どうか最後まで見守っていただければ嬉しいです。

皆さまの心にも、少しでもあたたかな羽音が届きますように――。

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