18話 君が恋しいーー。


漏らす吐息。

静寂の工房で、月明かりを帯びた七色の硝子が、彼を淡く照らしていた。

壁に掛けられていた布と同じ――一枚布。

その百合柄で仕立てられたドレスに、彼女は身を包んでいた。

目を奪われ、胸の奥が熱くなる。

長い時を経ても変わらぬ、確かな想い。

 

靴を履いたまま、ベッドに身を沈めると、マルセルは瞼を閉じた。

かつての可憐な少女は、今や――

憂いと強さを宿した凛とした女性に変貌していた。


あの時――鼓動が耳にまで届くように跳ねた。


マルセルは、胸を押さえた。

今でも高鳴りは消えない。

 

自分が、異国で成功を掴もうと必死だったように、

彼女も、一日一日を懸命に生きてきたのだろう。

 

――彼女は何を思い、このドレスを着ていたのか。

その意味を考えずにはいられなかった。


黄色の百合は、マルセルにとって愛の象徴。

隣国での事業を広げ、ここまで成し遂げるきっかけとなったのは、この布を通して彼女との繋がりを感じられたからだ。


 「イニー……

  君の、すべてが愛おしい。」


優雅な振る舞いの中にも、滲む苦労の影。

それを愛さずにはいられない。


 「まるで、同じ相手に――

  二度目の、初恋をしている

  ようだな……。」


マルセルは鼻で笑い、瞼を閉じる。

記憶と現実が重なり、胸の奥で静かに火花が散った。


 コンコンッ――

 

ノックと同時に、ジャネットが部屋に入ってきた。

表情には少しの緊張と、彼への淡い期待が混ざっている。


 「湯の用意はできております」


隣国特有の訛り声。

声色は、普段より少し高い色気と、心配の気配が滲む。


マルセルは横になったまま、ゆっくりと視線をあげた。


 「先に休むようにと、

  言わなかったか?」


 「休めませんでした……。

  マルセル様を、

  待っていましたので……」

 

小さく声は震え、瞳は真っ直ぐとマルセルを映している。

彼女の言葉に込められた献身――

それは、自分だけを想う心であることを、マルセルは知っていた。


眉を潜め、深い溜め息。

これはジャネットへの牽制。


彼女は、ボルテウから――彼を追うようにして、ここまで来た。

そしてその仕事ぶりには、マルセルも一目置いている。

だからこそ、彼女を傷つけたくはなかった。

 

マルセルは、腕を頭の下にくぐらせ、視線を面倒そうに彼女から逸らした。


 「お心を乱すつもりは

  ありません……。」


女性に興味がないものと思っていたのに、彼は、工房に女性を招いた。

 

 「ただ、マルセル様を、側で

  お支えできることが、わたしの

  喜びです……」


 

  わたしのことを――

  女としてみてほしい……。


 

彼に向ける言葉には、余裕などない。

瞳孔は激しく揺れる。


体を丁寧に洗い、清めてからここへやってきた。

今さら、引き返すわけにはいかない。

 

彼女は、胸元のボタンを、ひとつふたつと開けていくー。


すると、マルセルは静かに言い放った。


 「喜びを与えるほど、

  気を許した覚えはないんだが。」


濡れた髪から哀れに落ちる水滴。儚い泡の香りが漂う。

それでも、彼女は笑おうとした。


  「……わたしが、勝手に……

   お慕いしているだけですから……」


  「望んでない。」

  「指示したことだけ、こなして

   くれればいい。」

 

その声音は冷たくも、どこか哀しみを滲ませていた。

これも、マルセルなりの優しさ。

希望さえ残さない――明確な線。


 「……はい、失礼しました。」


震える手、震える呼吸。

 

 「もう、下がるんだ。」

 

 「……承知しました。」


彼女の黒い瞳に涙が光る――

けれど、マルセルの心は動かない。

 

イネスの瞳を知る彼には、

他の色はすべて霞んで見えた。


 パタン……ッ

 

扉の閉まる音に、ほっと力が抜ける。 

同時に、安堵と同じ重さの孤独だけが残った。


 「……イニー」


イネスの笑顔を思い出す。

その余韻は未だ強く残っていた。


だが――その奥底に残る焦燥。 

脳裏に、あの忌まわしい男の姿がちらついた。


まるで彼女を本当に愛しているかのような、振る舞い――眼差し。

事前の調べがなかったら、彼女を大切に思っていると勘違いするほどだった。

  

  ――あんな男の傍に、

  いつまでも置いておけない。


静かに上体を起こすと、マルセルは壁の布にそっと手を触れ、頬を寄せた。

布に彼女の面影を浮かべ、布の端を優しく握ると、小さく口づけをした。


  ――この怒りも、やがて霞む。

  彼女の心を手に入れた――その先に。


怒りは静寂に沈んでいった。


――


――イネスの翌日。

子供たちの笑顔は、朝の光より眩しい。

だが、頭は痛み、喉は渇き、心は重い。

 

 「大丈夫か?」


ダニエルが差し出す果実の汁も、甘く、苦い。


 「ハハッ

  これが二日酔いだよ、イネス

  大人の階段登ったな!」


ダニエルが、頬にエクボ。

子供みたいなこの笑顔がいつも以上に腹立たしい。

 

 「は?……これが大人?」

 

  わたしはあなたより"大人"よ!

  十年も前から

  死に戻ったんだから!


声にならない叫びを押し殺す。

少しの苛立ちも、頭の痛みには勝てない。

すべてがどうでもよくなり、イネスは枕を抱え横になった。


 「もう……お酒は飲まないわ……」


 「さみしいな、

  俺は酔った君の寝顔が

  好きなのに。可愛かったぞ?」


イネスは枕を投げつけ、そのままダニエルを追い出した。


 「……きっと、昨日の寝たふりが

  バレていたんだわ」


  

思考も定まらないまま横になっていると、時刻は正午。


 「ママ、具合大丈夫?」


近づく足音で、歩幅が小さいことがわかった。

足元には、摘まれた花。


 「もう大丈夫よ。お花綺麗ね」


真っ白なデイジー。


 「もっと綺麗だったのに、

  少し萎れちゃったの……」


 「お水に挿したら元気になるわよ?」


 「本当??良かったー!」


ブラットの瞳や髪の色は、ダニエルとそっくり。

そしてキリアンは、細い猫のような毛質に、自分と同じ瞳の色をしている。


 「さぁ、そろそろ起きないとね!」


  ――ダニエルと、わたしの子。

 

  遡ったのが、もっと前だったら、

  会えなかったかもれない……。

 

  よかった。

  二人が生まれてから戻ってこれて……


イネスは嬉しそうにブラットの髪を撫でた。


 「キリアンはどこ?」


 「ああ、それなら学術院?

  その先生が来てて、

  父さんと話をしてたよ?」


 「……そうなのね。」


 

この帝国では、十八歳になるまでに、貴族男児は勉学を目的とし、三年間、全寮制の学術院に入るのが決まり。

そこで、社交を学び交友関係を培う。

回帰前。

キリアンとブラットの二人は、来年の春、学術院へ入学した。


 

  ――ダニエルと別れるなら、その時。

  時間がない。


 

イネスは視線を落とし、指輪を見つめた。

 

これまで外すことのなかった、ダニエルとの夫婦の証。


  あの日、奪われた指輪……

  今度は自分から手放さなきゃ。


心惜しそうに、イネスは指輪を撫で、瞳を閉じた。

 

細い指に、冷たい輪がかろうじて留まる。

そのひんやりとした感触が、心の奥に静かに痛みを残した。


  

  

――次話予告――

迷いは、もうない。わたしは、あなたと別れるつもり。

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