9話 堕ちた少女は破滅を選ぶ。
朝の光が部屋に差し込むと、埃に混じった粒がゆらゆらと舞った。
窓の外では通りを行き交う人々の声がかすかに届き、遠くの鐘が柔らかく時を告げる。
その景色を眺めながら、胸のざわめきをそっと押し込めた。
彼の優しさも、眼差しも――すべてはエンリケの力によってねじ曲げられたものだ。
まるで、「妻を愛する」という呪い。
いっそ、この呪いを利用して、母としての権利を取り戻そう――。
そして、こう言ってやるはずだった。
「あなたと愛し合うつもりはない」と。
しかし、言葉は喉でつっかえ、形にならなかった。
優しく笑う彼の声。
必死に拒もうとしても、真っ直ぐに自分を見るその眼差しは柔らかく、心の奥が一瞬ほどけそうになった。
愛に枯渇し、孤独に沈んでいた日々が、嘘だったかのように思えた。
――いっそ赦して、楽になって
しまおうか……。
だが、弱さを律する声が胸の内で囁く。
「彼が本当に愛しているのは――
お前じゃない。
目を覚ませ。」
カーテン越しの朝日は、まるでダニエルの瞳のように揺れて、胸をざわつかせた。
広い部屋も、並ぶ衣装棚も――与えられたものすべてが偽りに見える。
「どうして、エンリケ様は……
あの人の心だけ、変えたの?」
首もとをかすめる風。
エンリケの宿るネックレスがひんやりと肌に触れる。
これにも、意味があるのだろうか。
コンコンッ——
「奥様、これからの支度を
お手伝いさせていただく、
アリーナです。」
不満げにため息を吐き、イネスは自ら衣服を整え、髪を結い上げる。
人の手は借りない。
それは、思慮なき夫への小さな仕返し。
心に鍵を下ろし、彼に付け入る隙を与えないためのささやかな抵抗だった。
幾つもの朝を、無言の責めに耐えてきた。
鏡の中の自分は痩せ細り、指先には冬の寒さと傷跡が残る。
だが、肌に触れる冷たさや空腹よりも、心の凍えの方がずっと深かった。
赦せるはずがない。
こんな簡単に。
――それはあまりにも、過去の自分が可哀想だ。
伝承が語る、エンリケにまつわる因習。
気まぐれに人の心を試すという話。
普遍的な愛など存在しないと、回帰前に痛いほど思い知った。
「だから、一人で強く――」
そう、決めた朝だった。
ガヤ――ッ。
高く響く子供の声に、胸の奥の想いが跳ねる。
「あっ、来た……!」
朝の光が頬を撫でるたび、あの子たちの成長が自分の生を刻んでいく。
新しい一日が、胸の高鳴りと共に始まった。
---
灰街の裏通り――。
ノアはローブを深く被り、足音を潜めて進む。
まがい物が並ぶ無法地帯だ。
囚われの“シャーマン”――老女ヴォアの家に辿り着くと、空気が淀んだ。
「……ククッ、ククク……あぁ、
これは……見事に傷がついておる」
濁った瞳と黄ばんだ歯。
ノアは一瞬たじろいだ。
「何が可笑しいの? 気味悪い。」
ヴォアは手を強引に開き、にやりと笑う。
「お主、邪術をかける相手が
悪かったねぇ……」
その言葉と共に、周囲の空気が凍るように止まった。
赤黒い線、血で汚れた人形の痕。
薄れていたはずの傷跡が、微かに疼き始めている。
「反動が出ておる」
ノアが顔を上げると、ヴォアの笑みは消えていた。
「祓われた……?」
掠れた声。胸騒ぎが止まらない。
あの声が脳裏に蘇る。
『願いは叶えよう。
されど約束ありじゃ。
この人形を粗末にするな。
傷ひとつでも付けば、願いは裏返り、
血の代償を求めよう……』
故意ではない。だが気づけば、太い線が刻まれていた。
ノアの身体が強ばる。
「なんでよっ!! ああ――ッ!!」
人形を振り払うノア。
ヴォアは動じず、静かにその先を見据える。
「ゲホッ……ッ……」
血がじくりと滲む。指の間からも滴り、ヴォアは掌で押さえた。ノアは後ずさり、心臓が跳ねる。
「か、帰れ……っ……」
「ここに二度と来るでないぞ!!」
人形を突き返すヴォア。
ノアは納得していない。
しかし、黒服の男たちが短剣を構えた。
引くしかない……。
ノアは唇を噛み、戸に手を掛けた。
「その男は諦めろ……
関わってはいけぬ」
「嫌よ、絶対に!!」
怒気が立ち上る。
手や腕に衝撃が走る。
胸に人形を抱き、全身を寒気が覆った。
かつて清らかだった少女は、禁断の術に堕ち、愛する男を呪術で支配していた。
代償の恐ろしさは、まだ知らない――それが、これからどれほどの淵に連れて行くのかを。
---
琥珀色の空に月が浮かぶ。蜂は巣を目指して飛び去った。
「兄さん、そろそろ戻ろうよ」
ベンチに座るキリアン。
今日一日、困惑ばかりだった。
母の眼差しと優しい声に、胸が熱くなる。
静かで穏やかな日常――それが、少しずつ壊れていく。
パカラッ、パカラララ……ッ。
「――あっ、ノアが来た!」
馬車が止まり、ブラットが飛びつく。
「ただいま」
「ノア、おかえり」
安堵の抱擁。
だが、その声の裏に影が落ちる。
「ただいま、キリアン。
わたしがいなくて嬉しかった?」
ノアの声に含まれた冷たさ。
イネスへの怒り、ダニエルへの焦燥、邪術への不安――すべてが噛み合わない。
「裏切り者。」
ノアは低い声で、キリアンの耳元に囁く。
キリアンは怯え、心を凍らせる。
揺れる瞳に映るノアの顔は、いつの間にか影に沈んでいた。
「ぼ、僕は、ノアの味方だよ……?」
「そうね……
あなたが裏切るはずないわよね」
微笑んだ唇が、ほんの一瞬、震えた。
ノアの声は柔らかいが、その眼差しは何かを奪う。
幸せが壊れる音が、静かに響いた。
呪いが静かにほどけ、彼の瞳から自分の影が消える。
「……わたしの愛しい子。
それなら、わたしのお願い――
聞いてくれるわよね?」
奪われるくらいなら、
なんでも利用してやる。
――何度でも呪ってやるわ。
行き着く先が地獄でも、
あの女にダニエルは渡さない。
――次話予告
無垢な瞳の残酷な願い。
傍にいられなかった代償――。
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