10話 身勝手な大人ーー被害者は子供


――朝の鍛錬のあと、水を飲み干したブラットが言った。

 

 「ママって呼んでいいの?」


視界が煌めいた。

幼いキリアンの口からは聞いたことがあったけれど、ブラットからは初めてだ。

「ママ」というその二文字は、胸の奥で静かに弾けた。

 

  か、可愛くてたまらない……。

 

心臓を、ギュっと掴まれたよう。

まさに鷲掴み。

無邪気な笑顔と、袖で口を拭うしぐさ。

心が溶けてしまいそうだった。


ブラットは天真爛漫。

あのえくぼを思い出すだけで、顔がほころぶ。


  ――キリアンとも少しだけ話せた。


視線を合わせずに「イネスさん」と呼ぶ子にも、子どもらしい一面があった。

褒めると照れくさそうに目をそらし、耳まで赤く染まるのは、自分と同じ。


 「おい、イネス……?」

 「俺の話、聞いてるか?大事な話だ。」


 「……なに?」


ダニエルの呼び掛けに、イネスの声色は低くなる。

水を差すなと言わんばかりの冷たい目。

ダニエルは少し目を伏せ話を続けた。


 「……き、君にはもっと早く

  話すべきだったんだが、

  楽しい気分に、

  水を差したくなくて……」

 

ダニエルの声はどこか探るよう。


 「昨日、ノアに――

  この家を出るように言った。

  だからもう、君が気に病む

  ことはないんだ。」


 「え……!?」

 

  ――ノアが、いなくなる……?


長年、胸の奥に巣くっていた“悩みの種”。

夕食前、ダニエルから話があると言われていたが、まさかこんな内容だとは思わなかった。


 「それ……本当?」


来た時には、気付けなかったけれど、書斎に置いてあったベッドや、三面鏡――

ノアのために用意されたであろう裏切りの象徴。

それが、跡形もなく失くなっていた。


 「ああ、はっきりと言った。

  彼女なら、荷物をまとめ次第、

  すぐにでも出ていくだろう。」


 「……言っただろ?

  俺は君が好きなんだ。」



  これは――喜ぶべき?

 

どんなに、社交界から非難されようとも、これまで彼は、平民のノアを手放さなかった。

 

 「でも、ダニエル……」


  ノアは、あの子たちの乳母……。


そう言いかけた言葉を、イネスはそっと飲み込んだ。


胸がざわめく。

ノアがいなくなることは良いことにきまってる。 

今後の息子たちと、自分の関係を考えたら……

 

  ダニエルはもう――

  ノアのことを愛していない。

 

  だったら、ただの"乳母"である女が

  出ていくことは当然……


主人の寵愛を失った、愛人の居場所がないのは普通だろう。


  けど……。

 

一方で、胸の奥で息子たちの悲しむ顔がよぎる。


 「……ノアが素直に、

  ここから出ていくとは

  思えない……」

 

何かが胸の内でひっかかり、言葉が途切れた。

 

 ボーン……ボーン……


仕掛け時計が、イネスの意識を現実へと引き戻した。


 「さぁ、話は後にしよう……

  君が来るのが遅いから、

  もう夕食の時間だ。」


 「こんな大事な話だとは思わなくて……」


 「ははは……いいさ、いいさ。

  俺は後回しなんだろ?」


ダニエルがドアを開け、イネスを外に出るよう促す。

イネスは、ふと笑みを浮かべた。


「……。」


ダニエルは駆け引きが上手だ。

押しつけるようでいて、空気を読み、引くところは引く。

だからイネスも、拒絶の言葉を口にしづらかった。


  ――この距離を保っていて

  くれたなら、もしかしたら

  この先も、うまくやっていける

  のかもしれない……



 「おいイネス、早くしろ

  あいつらが待ってる」


 「……ええ、いきましょう。」

 

イネスは一先ず、考えることをやめた。

夕食を待っているはずの、キリアンとブラット。


昼は少しだけ、二人と打ち解けることができた。

話の続きが楽しみでならない。

好きな食べ物のことや、学習のこと。

聞きたいことは山積みだ。

早くまた、子供たちの可愛い笑顔に触れたかった。

 

けれど――その笑顔を守るために、

どれほど残酷な選択を迫られることになるのか。

イネスは、まだ知らなかった。

 

――

 

吹き抜けの渡り廊下は、昼の暑さをまだ残し、薄紫の空には、星がひとつふたつ瞬きはじめていた。 

手を繋ぎたがるダニエルを、置いてけぼりにしながら、イネスは食堂へ急いだ。


イネスが取っ手に手をかけると。

ダニエルの手がそれを追い越す。

 

 「扉を開けるのは、

  紳士の務めだろう?」

 

そう言って見せた笑みには、どこか得意げな色があった。

 

しかし――

 

 「ダニエル、待ってたわ。」


軽やかな声が、楽しい気分を粉々に壊した。


……まるで、何事もなかったかのように。


ノアはそこにいた。

 

まるで時間が止まったようだ。

 

食堂の灯りが、彼女の黒い髪を鈍く照らす。


 「ノアとこれからは、

  食卓を囲むことはない

  だろう。」

 

――ダニエルは、昼にも確かにそう言っていた。

それがどうだ――赤いドレスに身を包み、ふてぶてしくも、キリアンとブラットの間に座り、食事を楽しんでいた。


イネスは困惑したように、ダニエルに目をやる。


 「この子達が、

  お腹を空かせていたから、

  先に食事をはじめていたのよ。」

  

ダニエルが呟く。

 

 「どうして君が……?」

 

 「僕が招待しました。」


キリアンはまっすぐと、父であるダニエルを見つめた。

姿勢をただし、椅子に腰かける姿は、どこか

追い込まれているよう。

 

ダニエルは、キリアンを静かに睨みながらも、イネスの椅子を引きエスコートした。


静かで張り詰めた夕食。


ブラットの瞳は、父と兄の間をさ迷っていた。

小さな肩はわずかに強張り、笑顔の気配はどこにもない。

  

ノアは笑う――嬉しそうに一人で。

 

 「"家族"みんなでの食事は

  美味しいわね?」


注がれる視線。

ノアは、気にする素振りも見せず、皿にフォークを擦りつけた。


――キィ……。


不快な音が響く中、ノアはトマトを口に運び、微笑んだ。


イネスの顔がひきつると、それを気にするように、ダニエルはノアを睨んだ。

 

 「昨日の話……忘れたのか?」


――するとキリアンは、静かにフォークを置いた。

 

 「父さん……、ノアをここに

  置いてあげてください。」


声帯の完成していないキリアンの声色は、高く澄んでいる。

けれど、それに似つかわしくない頑固さが滲む。


ダニエルが瓶を傾け、小さなグラスにゆっくりと酒を注ぐ。

芳醇な香りは熟成されたブランデー。


 「"乳母"を解雇すると、

  俺が決めた。」

 「これは決定事項だ。」


グラスを一気にあおる。

大人として、子供に貫禄の差を見せつけているよう。


 「イネス、さあ食べて。」


まるで、子供の意見は受け付けない。

そう言っているようだった。


――しかし、キリアンは姿勢を崩さず、覚悟を決めたように、まっすぐと父をみる。

 

僅かに口を震わせ、目には涙。

イネスにも緊張が走る。

ふと目の端で見るノアは、余裕ありげに食事を続けている。

なんとも不気味。

 

 バンッ!!


ブラットがテーブルを叩き、声を震わせた。

 

 「だ、だって父さんは、

  ノアのこと好きだった

  じゃないか……!」

 「家族を、追い出すなんて

  ひどいよ……!!」


夕食前、密かにノアから告げられた言葉が、頭の中で何度も繰り返される。

 

 「あなた達とはお別れなの……。」

 「荷物をまとめたわ、

  もう出ていかないといけない。」


ブラッドの小さな体が震えた。

そして何も言わずに目を伏せ、机に突っ伏した。

  

 「そうです、父さん……

  ブラットの言うとおりです。」

 「な、なぜ突然、ノアを

  追い出すのですか……?

  僕たちの大事な家族です……っ

  父さんは勝手です………」


 

 「ノアが、何かしましたか!?」


キリアンの頬に涙が伝う。

膝にのせられた拳は、固く握られ震えていた。


――そして、

 

 「イネスさん、お願いです……」

 「ち、父を説得してくださいっ

  心からのお願いです……。」


失うことを強く怖れ、怯える小さな体。


キリアンは、目や鼻を赤くしながら、イネスを睨む。

 

お願いと言いながらも、その瞳は――

 

 "あなたのせい"。

 

まるでそう言っているようだ。

 

イネスの心は、痛みで軋み沈黙しか返せなかった。

あまりにも複雑。

 

  ――わたしが間違っていた。

  甘かった……。  

  この子達にとって乳母は、

  ――かわりのきかない『母』。


 


 ――次話予告

いっそ抱かれてしまおうか……?

妻の打算と策略。

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