6話 それぞれの思惑ーー始まり。


 


扉が閉まる音。

注がれる視線。

――邪魔者が来た。

まるでそう聞こえる。


口を噤み、驚きを隠せなかった使用人も、何かを察し配膳に戻る。

 

しかし、若返ったノアへの好奇の目線も、わたしにとっては取るに足らない。


罰部屋の庭では、声しか聞こえなかった子供たちが、今は目の前にいる。

鼻がツンとなり、口を結んで涙を堪えた。


――死に戻った今、子供たち以外は空気。

――いらない。


息の止まるような緊張を胸に抱え、歩き、目線は二人へ。

  

大きな椅子に、背丈の小さな二人が並んで座っていた。

思わず声に「可愛い」と乗せそうになった。

 

この子たちは、死の淵のわたしに光を灯してくれた。


――わたしは、あなた達に会うために回帰した。


二人の笑顔が見たい!


しかし、

息子たちは、イネスから目を逸らした。

その瞬間胸が凍りついた。


その静寂を破ったのは、ダニエル。


 「イネス、君は歩くのが早いな、

  どんどん行ってしまうから」


パンの入った籠をテーブルに置くと、イネスの肩を軽く押し、着席を促した。



 「さぁ、食べようか」


 「ええ……そうね」


 この空気の読めなさはなんなのか……

 幸い、今は助かる。

 

 けれど―― 

 愛人のもとへ、

 わたしが突然やって来たのに、

 気にならないのかしら……


と、思いつつ、口には出さない。

今も昔も――ダニエルの考えはよくわからない。

 

 「……奥様、お久しぶりです」

 

――朝食が不味くなった。

ノアはそんな顔してる――。

イネスが少し口の端を緩めると、ノアが睨んだ。

イネスはノアに視線を合わせないように……というより、気にしないようにした。


 「キリアン、ブラット、

  お、おはよう。」

  

二人は、目に明らかな警戒を浮かべる。


イネスの喉が鳴る。

このほんの少しの間が、イネスにとっては、とても長い時間に感じられた。

 

期待はすぐに現実へ――

イネスは悟った。


  甘かった……

  エンリケ様は、二人の心を

  変えてはくださらなかった……。


二人はうつむいたまま。

 

肩を落とすイネスを見かね、ダニエルは、大きな咳払いをした。


 「……おはようございます」

キリアンは小さく挨拶をした。


は「ブラット、お前も

  母さんに挨拶しなさい」


ダニエルは兄弟の皿に、イネスが焼いた黒パンを乗せていった。


ブラットは、イネスをチラッとみると、パンで顔を隠した。


「……っ」


  わたしを怖がっているのかも……

  ーーけど、顔がみれた。

  二人に……会うことができた……。


体が熱くなり、料理の香りも、晴れた天気も、すべてが素敵に思えた。

 

イネスは悟られないように、指で背で涙をそっと拭う。


 「ブラット、挨拶をしろ!」

 

食い下がるダニエルに、ノアは手を添えた。

 

 「ダニエル、いいじゃない挨拶は

  突然いらっしゃったのだから

  この子達が、"奥様を怖がっても

  当然"だわ。」


ノアのその一言で、場が更に張り詰めた。


 「ノア、やめろ。」


 「……後で"俺の部屋"にこい」


 「部屋?ああ、そうね……ふふ…

  "朝"からわたしのことを

  呼びつけるのね」


 「……やめてくれ。

  ――真面目な話をする。」


ダニエルは、イネスを気にするように目の端をやった。

 

ノアは平民だが、幼馴染みでもある二人。

砕けた会話に、身分の差などない。


  "俺の部屋"?

  ……朝から呼びつける?


  はぁ……"そういうこと"ね……。


ダニエルの書斎――兼、“俺の部屋”。


そこは二人の密会の場所だった。

イネスは、罰部屋に追われるその日まで、二人の逢瀬を見せつけられてきた、

  

  ――気持ち悪い。


イネスは心の中で嘲った。

軽蔑以外の何ものでもなかった。


イネスの顔色を伺うダニエル。

妻と愛人であるノアの対面。


――イネスの心が気掛かりだった。


  本当は、二人を

  対面させたくなかった……。


溜め息をつくように、息子達に目をやる。

挨拶もろくしない。

目も会わせない。

母親を嫌うように仕向けたのは俺だ……。


過去の自分はどうかしていた。

これからは、それを改めていかねばならない。


ダニエルは、厳しい顔をして、兄弟を順に見ていった。


 「このパンは、"お前達の母さん"

  が、焼いたものだ。

  おまえ達も食べてみなさい」


少し戸惑いをみせつつも、二人はパンを手に取った。

  

 「いただきます……」

 

一口かじり、すぐにキリアンは皿に戻した。


小さなため息をつく。

イネスはそれを見落とさなかった……。 


黒パンを前に、怯えるような子供たちの瞳を見て、イネスは胸を締めつけられた。

  

ブラットは、パンを口に運ぼうとさえしない。


 「無理して食べることないのよ?」


イネスは、ブラットに申し訳なく思った。


そして、ノアは笑う。

 

 「この子達は、殻付きの

  パンなんて食べないのよ……」

 「ふふ……

  奥様が黒パンをお好きなんて

  知らなかったわ」


ノアはブラットの皿から黒パンをかすめ取ると、得意気にジャムを塗りだした。

 

 黒パンなんて――貧乏くさい……

 この子たちに、あんたの味覚が

 合うわけないじゃない!

 

ボタボタと、ジャムが落ちる音でさえ、ノアの怒りのように響く。

  

 「はい、ブラット……

  "我慢"して食べてごらんなさい」


一口かじる。


 「……固いよ、ノア。

  けど、甘いから

  なんとか食べられるかな…」


 「偉いわよ。

  "底辺"の生活を知ることも

  上に立つものとして

  大事なことよ」


イネスは、笑顔を崩さず、膝上に敷かれたナプキンをギュッと握る。


  ――こんなこと気にしちゃダメ。


 「わたしもいただくわ」


挑発には乗らない――

イネスは、食卓の中央にあるドライフルーツとパンを皿に乗せた。


 「黒パンは栄養価が高いのよ」


イネスが笑う。


 「ぷっ……」


ノアが思わず吹き出す。


バカにされるのは慣れている。

――それでも、私はここに“生きている”。

イネスは構わず食事を続けた。

――口に含んだドライフルーツとパンの甘さが、舌の奥でじんわりと、胸の熱に溶け込んでいくようだった。

 

これは喜びの味。

時折涙がでそうになるのを堪えては、また一口と食べていく。


――静かにその様子を見守っていたダニエル。

黒いパンの意味にようやく気づく。


《黒パン》精製されてない小麦。

それは、貧困の象徴。 

 

一口食べただけで残された黒いパンと、

ジャムで塗り潰された黒いパン。

 

そして、長年愛していたはずの彼女は、イネスに恥をかかせた。


歪んだ笑顔で、イネスを睨みつけ子供たちを支配している……。


俺は、彼女のどこをみて、あんなにも愛していたのだろうか……。


手元を見つめ、ダニエルはしばらく沈黙した。


ノアはイネスを睨み、子供たちは遠慮がち。 

その食卓は、皮肉なほどに静かだった。

  

幸せそうに微笑むのはイネスだけだった。

 

かつて、少し大きくなった兄弟は、父の目を盗んでイネスの罰部屋を訪れた。

喜ぶイネスに、キリアンはこう問いかけた。


 「ここで母さんは

  罰を受けているって聞いた……

  どうして、小さな僕を

  傷つけたの?」


弁明しても信じてもらえず、ある日、窓を打つ石が飛んできた。


「僕たちを捨てた悪魔」

 

石をくるんでいた紙には、そう書かれていた。


イネスは、蘇る辛い記憶を誤魔化す一心で、パンにたっぷりとチーズをのせた。


 「美味しいわ!

  ――羊のチーズ」


先祖、羊毛で栄えた歴史をもつ、マイリー家。

授乳量が少なく、高たんぱくな羊のチーズは富みの象徴。


 「そうだろう!」


目を輝かせるダニエル。

余程イネスの笑顔が嬉しかったのか、使用人達に、倉庫に寝かせている、とっておきのチーズをもってくるように指示をした。


それを横目にやりながら、ノアは手をに握り、沈黙を貫いていた。

 

一瞬、笑顔に垣間見た、恐ろしいノアの形相。

ハッと、テーブルに、キリアンは視線を戻した。

 

静かに見守っていた瞳。

そのとき、キリアンの視界――

  

それは、曇りなき眼で、大人達を映しだしていた。

 

小さな胸に、何かつっかえたような感覚――

それは、ザワザワとした焦り。

 

父が、ノアに向けていた眼差しが、突然現れた"母"に向けられていた。


心に宿った思いは、

「ノア、可哀想」


母は、"母"ではなく、"恥ずかしい存在"、そして――心に病気を抱えた"怖い人"……。


純粋な子供心は揺れる――戸惑い。

大好きなノアへ、募る罪悪感。

 

ジャムが飛び散ったテーブルは、酷く汚い――。

それが、なんだか悲しかった。

 

いつもと違う黒パンと、噛んでも、何故か味のしなくなった料理。



――この日、

キリアンの瞳に映った“大人たち”の姿は、やがて彼の運命を大きく変える。


静寂の中、黒いパンの欠片がーーぽとりと落ちた。

 


 

――次話予告

ノアの呪策――仕組まれた罠。

子供たちは切り札。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る