5話 夫など、誰のものでもいい
軋む床を一歩越えた瞬間、空気の匂いまで、がらりと色を変えた。
そこは――夫とノア、子供たちの世界。
かつては、騎士が立ち塞がり、足を踏み入れることすら許されなかった場所。
その騎士の姿が、今どこにもない。
「……よかった。」
騒ぎの一つでも起こしてやるつもりでいたのに、あまりにあっけなく、イネスは拍子抜けした。
嬉しさがこみ上げ、カゴからパンを取り出し、かじって祝いたいほどだった。
しかし、柱も壁も家具もすべてが彼らに馴染み、異質な世界。
一歩一歩進むたび、壁の装飾は派手になっていく。
無駄なこの絵の一つでも売れば、自分はもう少し楽に暮らせていたのではないか、そう思うと、そのパンさえ食べる気が失せた。
「渡す金がない……
あれは、単にお金がないん
じゃなくて、
わたしには渡したくない
って意味だったのね……」
「イネス!」
彼は、声とともに慌て駆け寄ってきた。
イネスは身構えた。
きっとここへ立ち入ったことを怒るだろう。
だが、関係ない。
イネスは、歩みを止めることなく進んだ。
でも一方で、涙を浮かべ、謝ったあの夜の夫の姿がよぎった。
それは、過去では決して見られなかった光景。
――やっぱり、
エンリケ様の力……?
けれど、もし彼が“その力”によって、心を入れ替えたのだとしても、受けた“仕打ち”が消えるわけではない。
――わたしは悪くない。
胸を張って進めばいい。
かつて三歳の長男キリアンが頭に怪我を負った。
狼狽えるイネス。
そして、ノアは静かに夫へ告げた。
「奥様は体も弱く、心が繊細。」
「このままでは子供たちのことを、
"さらに"傷つけてしまうわ……。
ダニエル、わたしは
それが心配なの。」
まるでイネスが、故意にキリアンを傷つけたかのような口振りだった。
証拠も理屈もない。
――ただ、声の調子ひとつで真実はねじ曲がる。
ダニエルはその言葉を疑いもせず受け入れ、イネスは子供たちに触れることを禁じられた。
あのとき、私はキリアンを
傷つけてなんかいない!
次男ブラットを産んだあとの体は、鉛のように重かった。
動かぬ体に心も沈み、呼吸だけを続ける人形のような日々。
夫の冷たい言葉が、眠れぬ夜ごとに胸を突き刺した。
気づけば、体が回復した頃には、子供たちの心は、すでに夫とノアのもとに寄り添い、イネスのもとから離れていたのだった。
「調子はどうだ?
今、君のところへ
向かうところだったんだ」
「あっ……あと、
素敵なドレスだな、綺麗だ……」
ダニエルは、朗らかに笑い、イネスを、熱に浮かされたように見つめた。
あの時しっかりと
考えられなかったけど、
やっぱりおかしい……
眉間にシワが寄ってない。
話すときはいつも不機嫌な顔をしていた。
端正な顔立ちも、ここまで歪むのかと、思った程。
結婚前、ダニエルは、人気の花婿候補だった。
整った顔に、白い歯がのぞけば、年頃の令嬢たちは、心を射貫かれたように瞳を輝かせた。
―一目で恋に落ちたイネスも、その一人。
好きだったあの頃のダニエルが、まるで
蘇ったよう。
イネスは少し戸惑い、視線を反らす。
「体調は良いわ。
子供たちのところへ
行くところなの。」
「パンを作ったから、
朝食でも一緒に食べようかと
思って……。」
――毅然と、堂々とするのよ!
回帰前のダニエルなら、怒って
「織物の取引を打ち切る」と脅したに違いない。
イネスは父のために、何度もこの強迫に耐えてきた。
そして今も、内心ではまだ怯えている。
「そうか、旨そうな
パンじゃないか。
アイツらも喜ぶだろう!」
す香りを確かめるように、イネスの手からパンを取った。
「……それだけ?」
少しいじわるそうな顔で、目を細めて
笑うダニエル。
「いいだろ?
朝からキリアンとブラットに
剣の稽古をつけていたんだ。
腹が減ってどうしようもない」
「パンのことじゃなくて……」
「旨い……」
かじりつくと旨味がひろがった。
貴族令嬢であったイネスが、パンを上手に焼けるということは、彼女がどんな日々を送ってきたかを物語っていた。
――結婚した時、
彼女には、苦労をかけないと
誓ったのに……。
イネスが作ったと思うと、瞳の奥が熱くなった。
涙が出そうになるのを堪えながら、ダニエルは一気にパンを食べ終えた。
香りも味も申し分ない。
旨い。けど、固い。
それに――
「黒いパンなんて"初めて"食べた。」
ダニエルの何気なく放った一言。
イネスの瞳に、淡い影がひと筋、落ちた。
それにダニエルは気づけない。
「さあ、行こう」
心には贖罪。
謝ることは、同時に許しを乞うこと。
――イネスに、無理に
謝ることはやめよう……。
彼女に負担を
かけてしまうから。
やはりダニエルの心は、未来へと向かっていた。
考えた末、それが出した答え。
ダニエルは、手をさしだした。
ーーだがイネスは、その手を払いのける。
「初めて?黒いパンが?」
「……あぁ、見たこともない」
「ああ……そうか、そうよね……
あの子達の口に合うわけ……」
――忘れていた。
何十年も、このパンしか
食べてこなかったから……。
黒いパン――これは、皮や胚が残る粗びき粉。
しっかりと精製された、白い小麦しか、上流階級の貴族達は口にしない。
「これ……
やっぱり置いてくる……」
「いや、旨いよ!
あいつらもきっと喜ぶ。」
「君が焼いたんだぞ!」
ダニエルはイネスからカゴを取り上げると、
嬉しそうに歩きだした。
「早く行こう。
君のこの美しい姿を、
あいつらにも見せてやるんだ」
目尻を下げ嬉しそうに笑い、驚くほど真っ直ぐで、その瞳は、愛し合っていたあの頃のように、熱を帯びている。
――口に合わないはずのパンも
美味しいと言うなんて……。
回帰前とは別人――
拍子抜けするほど、優しさに溢れていた。
イネスは思わず息を呑む。
まるで――わたしを
本当に愛しているように
見えるわ……。
ここまでくると、“エンリケ”の力が、自分が遡ったことだけでは、"説明がつかない"。
子供たちとの関係――
そして、ノアとの確執。
そのすべてが、変わっているかもしれない。
イネスの胸に、静かな期待が膨らんだ。
――わたしが、愛を欲したから、
彼の心を、かえてくれたの
かもしれない。
あの子たちも、きっと……。
そう思うと、胸が熱くなった。
イネスは息を詰め、その熱を抱きしめた。
それは涙とも違う、初めて抱く“希望”だった。
夫など、誰のものでも構わない。
――あの子たちさえ、わたしを愛してくれるのなら。
廊下の装飾やカーテン――
すべてが、結婚した当時、イネスが整えたものとは違い、ノアの趣味で彩られていた。
横目で苛立ちを押し殺しながらも、心はただ、子供たちの中に、「ほんの少しでも、自分を想う気持ち」が残っていてほしい」と願う。
イネスは扉の前で、そっと息を整えた。
巡るのは、幸せな未来への、ささやかな希望。
――あの子たちの、愛に満ちた
眼差しに、触れたい……。
だがそこには
――そんな幻想、ありはしなかった。
ーー次話予告
黒いパンは、食べられない。
ノアの微笑み、その裏に潜む牽制。
“母”とは誰なのか。
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