第13話 優しさの毒
開店前のロッカールーム。
鏡の中の自分が、どこか“他人”に見える。
「カイン、完全に顔死んでる」
優斗の軽口にも、
返す余裕がなかった。
「昨日のVIP、地獄だったな」
「お前がいてくれてよかったよ…」
昨夜はもう一人いた姫が優斗を指名したので
優斗がうまくフォローを入れてくれた。
こいつがいなければ間がもたなかっただろう。
「ありゃお前でもキツいよ、
太客の姫二人からのダブル指名って
どんな修羅場だよ…」
「…別にどうって事はなかったけどな」
「どうって事あったから
そんなひどい顔してるんじゃねえのか?」
優斗は苦笑いをして去っていった。
残った沈黙が、妙に耳に痛かった。
⸻
営業が始まっても、
身体が思うように動かない。
笑顔が薄い。声が軽い。
鏡越しに見える自分が、
“演じる力”を失いかけていた。
そんな時、内勤スタッフが近づく。
「カインさん、A卓。美穂さん、ご来店です」
メンタルにとどめを刺された。
昨日の光景が蘇る。
でも行かないわけにはいかない。
席に向かうと、美穂が静かに微笑んだ。
昨日よりも淡いメイク。
まるで、戦わないと決めた人の顔。
「こんばんは」
「来てくれたんだ、ありがとう」
「うん。昨日、あんまり話せなかったから」
美穂はグラスを手に取りながら、
まっすぐに俺を見た。
「ねえ、沙耶ってさ、カインの元カノでしょ」
返事をしなかった。
沈黙が、肯定よりも正確だった。
「やっぱりね。嘘つかないとこ好きだけど…
でも本音を見せてくれた分、
その先も全部、見たくなっちゃう」
「…美穂、もう勘弁してくれって」
「ねぇカインくん。
あなたの“ほんとの名前”って何?」
美穂は本当に裏側に手をかけようとしてきた。
しかもストレートに。
「なんでそんなこと聞く?」
「ちょっとした嫉妬かな?
沙耶は“ほんとの名前”知ってるんでしょ?」
まいったな、と思った。
この女は“観察”じゃなく“直感”で
真実を嗅ぎ取る。
夜の世界で一番、厄介なタイプ。
「俺はカイン。それ以外の名前はもうない」
「そう言うと思った」
彼女は微笑んだ。
けれどその笑みの裏に、確かな痛みが見えた。
「じゃあ、もう少しだけ“カイン”を信じてみる」
「…俺なんか信じても、いいことないぞ」
「信じるのに、理由なんて要らないよ」
その一言が、胸の奥に刺さった。
理屈じゃない優しさほど
ホストにとって危険なものはない。
だが、今の俺はその危険を拒めなかった。
⸻
閉店後。
裏口に出ると、真田さんが待っていた。
「お疲れさん。お前、だいぶ危ないな」
「そう見えますか」
「“仕事”が“生き方”に侵食される時、
人は一番弱くなる」
「…俺、まだ大丈夫ですよ」
「ならいいが。
あの美穂っていう姫に入れ込みすぎるなよ」
そう言って真田さんは去っていった。
残された俺は、夜風を吸い込む。
煙草の火が、いつもより赤く見えた。
そのとき、スマホが震えた。
──『明日、時間ある?』
美穂からだった。
指が止まる。
返事を打つ前に、
“夜の中で何かが音もなく崩れる”のを感じた。
──深夜三時。
夜に落ちた音は、誰にも聞こえなかった。
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