第12話 嘘の下手な男

その夜の店は、いつもより少しだけ熱かった。

照明が白く、音楽が速い。

酔った笑い声が重なって、

空気が妙に乾いている。

そんな日に限って忙しくなる。


「カイン、A卓指名だ。ついてくれ」

「カイン、指名だ」

「飲み直し、入ったぞ」

「B卓、ブーブイエロー入りました」


スタッフや真田さんの声に、無意識で頷いた。

客の名前も、内容も、頭に入ってこない。

ただ、喉の奥に残った煙草の苦味だけが

現実を繋ぎ止めていた。


笑え。

頷け。

触れすぎるな。


──それが夜のルールだ。


けれど、その夜は違った。


入り口が開く音。

視線を向けた瞬間、時間が止まった。


沙耶。


ワインレッドのドレス。

落ち着いた色気。

そして、その後ろに並ぶ

二人の女のうちのひとり。


美穂だった。


「…は?」


声にならない声が漏れた。


真田さんの表情がわずかに動く。

店全体の空気が変わるのが分かった。


沙耶がスタッフに何かを告げ、

そのまま一番奥の広いVIP席に通された。

美穂ももう一人の女性も同じ部屋へ消えた。


──最悪の組み合わせ。


「沙耶と美穂、知り合いだったのか…?」


俺の胸がざわめく。

“元恋人”と“気になる女”が、

同じテーブルで飲んでる。


「カイン、指名入ったぞ」


真田さんの声が響く。


「VIPの3名様の席だ」


「…マジかよ…真田さん、

 この被りはヤバくないですか?」


「姫同士が被りを了承してるらしい。

 美穂さんと沙耶さんからのダブル指名だ。

 残ったお一人だけフリーみたいだな」


被りとはそのままの意味。

指名している姫の来店タイミングが被る、

という意味の用語だ。

熱心な姫が被りにキレて

トラブルになることもよくある。

まず、同じ卓で被ることはありえない。


立ち上がる足が重い。

一歩近づくたびに、

心臓の音がやけに大きく聞こえた。


一度、姿勢を正してVIPルームのドアを開ける。


「お疲れ様、…かいと…いえ、カイン」


沙耶が微笑む。

その隣で、美穂が少しだけ

驚いたようにこちらを見た。


「カインくん、沙耶と知り合いだったんだ」


沙耶がグラスを持ち上げる。


「昔ね。少しだけ」


一瞬、目の奥が光った。

まるで何かを試すように。


「へぇ…そうなんだ」


美穂の声が少し低くなる。

その音に、微かな緊張が走った。


「カイン、乾杯しようよ」


沙耶が言う。

グラスを合わせる音。

その音が、夜に落ちた。


笑顔を作った。

でも、心は動かなかった。


美穂が俺を見ていた。

その瞳の奥に、何かが揺れていた。


「カインくん」


「なに?」


「…今日ぜんぜん笑ってないね」


笑えるわけがないだろ

という言葉を必死に飲み込む。


俺の中で音が消えた。

店内の喧騒が、遠くに霞む。


(想像以上に疲れるな、こりゃ)


その瞬間、

沙耶が小さく笑った。


「やっぱり、嘘が下手ね。昔から」


美穂が何かに気付いたように沙耶を見る。

俺の脳内の防波堤がジェンガのように崩れた。


真田さんが遠くからこちらを見ていた。


その表情は、何も言わないかわりに、

すべてを理解しているようだった。


──夜に、何かが落ちた。

それが心なのか、嘘なのか、

俺にはまだ分からなかった。

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