第2話 ランカーの哲学

翌日の夕方、

まだ陽の残る歌舞伎町は

夜を待つための準備をしていた。


店の前の歩道には、

出勤前のホストやキャバ嬢が並び、

それぞれの香りと嘘を纏っていく。


「おはようございます、カインさん」


後輩ホスト・駿しゅんが軽く頭を下げた。

まだ二十歳そこそこの新人だ。

化粧が濃く、スーツの肩が少し合っていない。


「おはよう。お前同伴じゃなかったのか?」


「すんません、ドタキャンされちゃって」


「そういう日もあるよ、あんま気に病むな。

 期待は裏切りの前座っていうからな」


駿は苦笑いしながらも、

どこか羨ましそうに俺を見ていた。


「ずっと思ってたんすけどカインさん、

 なんでナンバーワンにならないんすか?」


「…おいおい、麗也さんがいるだろ?

 うちの不動のナンバーワンの。」


「でもカインさん…

 たまに太客がシャンパン入れるのを

 あえて止めたりしてる事ありません?」


「考え過ぎだ、俺はバンスが嫌なだけ」


バンスとはいわゆるツケの事だ。

客から回収出来なくなるとホストが代わりに

支払いを肩代わりさせられる。


駿は去り際にポツリと漏らした。


「…ランカーの悩みってやつっすね」


ランカーとは売上ランキングの上位者。


ルクストでは1位から10位までを

基本的に「ランカー」と呼んでいる。

現在、今月は6位の俺も一応、

ランカーと呼ばれる立場にあるという事だ。



ルクストの店内は、開店前から慌ただしい。

内勤スタッフが氷を運び、グラスを並べる。

照明が少しずつ明るさを増していく。


「カイン、今日も頼むぞ」


店長の真田さんが声をかけてきた。

四十代半ば、元ホスト。

筋肉質で平成のサーファーのような風貌。

常に笑っているが、笑顔の奥に計算がある男だ。


「はい。いつも通りに」


「“いつも通り”ができる奴が一番怖ぇんだよ」


そう言って、真田は笑いながら去っていった。


――いつも通り。

これが俺にとっての“武器”であり、“盾”。


トップに立てば、誰かが引きずり下ろしにくる。

落ちれば、誰も手を差し伸べない。

ならば、波の下で静かに泳ぐのが一番賢い。


女性に愛され、同業に嫉まれず、

誰にも心を明け渡さない位置。

そこにいれば、誰も自分を裏切らない。


「カイン、今夜シャンパン入るぞ」


同僚の優斗ゆうとが笑顔で

こちらに向かってピースサインをする。


「先月からの指名が今日店に来てくれるんだ」


「そうか。最近すごいな優斗」


「ランカー常連組のお前には負けるよ。

 指名についててもさりげなく抜けて

 必ずいつもシャンコに混ざってくれるよな」


「盛り上げないと売上出ないから。任せろよ」


シャンコとはシャンパンコールの略称だ。

客が高いシャンパンを入れてくれた時、

手の空いたホストが何人かでコールをする。

客の意欲を煽る重要なパフォーマンスだ。


優斗は眉毛を下げて笑った。


「出たよ、“任せろ”。

 ほんとお前って真面目だわ」


「ふざけたら金が逃げる」


「冷てぇな。

 お前、いつか女に刺されるぞ」


「刺されたら、それも話のネタになる」


今度は二人で笑った。

だが、俺の笑い声の奥には何もなかった。


ふと、鏡越しに自分の目が映った。

そこには、見慣れた“仮面”がある。


愛想笑いも、優しい声も、完璧に整っている。

だが、その奥には、何も映らない。


――俺は頂点を望まない。


頂点に立つ人間ほど大事な局面で

人を信じなければならなくなるから。


陽の光が完全に落ちた。

店の扉が開く音と同時に、

俺はもう一度、自分の笑顔を確認した。


「さて…今夜も忙しくなるな」


静かな独り言は、

どこかの卓のシャンパンの泡に消えた。

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